恩納村の戦争、村史で継承へ 発刊記念でシンポ 米軍基地内の戦跡、実態解明進まず


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恩納村での戦争の特徴などを語る(左から)瀬戸隆博さん、川満彰さん、吉浜忍さん、清水史彦さん=6月12日、恩納村博物館

 【恩納】恩納村史戦争編の発刊記念シンポジウム「恩納村の戦争―村民の体験・護郷隊・山の戦争」が6月12日、恩納村博物館で催された。編集の専門部会長を務めた吉浜忍元沖縄国際大教授は、体験者が減少する中、「行政が体験を聞き取った最後の村史になるのではないか」と意義を強調した。体験談の読み合わせや収録した戦争マップを使った親子戦跡巡りなどで活用を呼び掛けた。

 村史編さん係の瀬戸隆博さんは、恩納岳などの山々は村内外の住民の避難地であるとともに、10代の少年を集めて結成された第2護郷隊の拠点にもなり「軍民混在の中、終わりの見えない戦争が行われた」と解説した。

 戦跡が残る地域は米軍基地や演習場となっており「現地調査ができない状況だ」と述べ、戦後77年たった今も実態解明が進まない課題を語った。

 専門部会委員の川満彰さんは、1931年の満州事変に始まった「15年戦争」でみると、恩納村の戦没者率は25・6%、4人に1人が亡くなったことを説明した。事前に策定された疎開計画では、恩納村には中頭郡や本部町、今帰仁村から避難が行われる予定だったことに言及。実際には米軍は読谷から北上したため「本部や今帰仁から南下することがあり得るのか。計画は失敗だった」と指摘した。

 清水史彦さんは、米軍資料を読み込むことで、沖縄戦の実態解明がさらに進む可能性があるとした。
 (知念征尚)