那覇市首里にお住まいの嵩原安正さん(87)から戦争体験のお話をうかがいました。嵩原さんは戦時中、パラオで暮らしました。食糧難の中、2人の弟を亡くしました。
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嵩原さんは1934年9月、日本の委任統治領だったサイパン島のチャランカ町(チャラン・カノア)で生まれました。父の安市さんは兼城村(現糸満市)阿波根の出身で、サトウキビ農家としてサイパン島に渡りました。
安市さんは三男で、兄2人もサイパン島でキビ作りに従事していました。「長男おじさんが先にサイパンに行って、手広くキビを作っていました。次男おじさんもサイパンに渡りました」と安正さんは語ります。
当時のサイパン島で製糖業を営んでいたのは南洋興発という企業です。キビ作りに慣れた沖縄の農家を受け入れ、事業を拡大しました。安市さんは南洋興発の製糖工場でも働きます。安正さんは製糖工場を見学したことを覚えています。
安正さんが5歳の頃、サイパン島を離れ、委任統治領パラオのペリリュー島で暮らすようになります。「サイパンよりもいい仕事がある」という安市さんの判断が理由でした。
ペリリュー島に渡る前、家族は2カ月ほどコロール島に滞在しました。この島にはサイパン、テニアンなど当時「南洋群島」と呼ばれた委任統治領の島々の統治機関・南洋庁が置かれていました。
安市さんはペリリュー島で軍属として新たな仕事に就きます。安正さんは小学校に入学します。