暮らしに戦争の影 嵩原安正さん(3)島の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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 パラオのペリリュー島に渡った嵩原安正さん(87)=那覇市=の平穏な暮らしは長くは続きませんでした。1942年夏、一家はペリリュー島を離れることになります。「小学校2年の2学期の途中でパラオ本島に疎開するよう指示がありました」と嵩原さんは語ります。

 「パラオ本島」とはパラオが日本の委任統治領であった頃の呼び名で、現在の名称はバベルダオブ島です。行政機関・南洋庁が置かれたコロール島の北に位置します。

 ペリリュー島を出た一家は一時、コロール島で滞在し、嵩原さんは島内の第二国民学校に通います。その後、パラオ本島中央の大和村で1カ月滞在した後、南部のアイライ村で暮らしました。この島で末の弟が生まれました。一家は農業に従事しましたが、父の安市さんは軍に召集されました。

 嵩原さんは瑞穂国民学校に通いました。「2年生、3年生の時は運動会がありました」と語ります。そのような学校生活も長くは続きませんでした。

 「学校に通ったのは昭和19年の2月頃までです。その後、日本軍が校舎を兵舎として使い、運動場では訓練をするようになりました」

 戦争が嵩原さん一家の暮らしに影を落とすようになります。