家族と遺骨携え沖縄へ 嵩原安正さん(8)島の戦争<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
パラオで亡くなった2人の弟の名が「平和の礎」に刻まれている

 2人の弟、安光さんと安佐美さんをパラオで亡くした嵩原安正さん(87)=那覇市=は1946年、家族と共に沖縄に引き揚げます。遺骨を携え、家族は中城村の久場崎に上陸し、父の出身地、兼城村(現糸満市)に向かいます。

 サイパン島で生まれた嵩原さんが沖縄で生活するのは初めてでした。「久場崎で一泊した後、トラックに乗せられ兼城で降ろされました。そこには住む家はありませんでした」

 嵩原さんは戦争のために44年2月以降、学校に通えませんでした。「2年間、教育の空白がありました」と語ります。兼城村の小学校に通うことになりましたが、本来の5年生ではなく一学年下の4年生に編入しました。

 高校を卒業した後、嵩原さんは税務署や銀行に勤めました。慰霊墓参で戦後初めてパラオを訪れた時には70代になっていました。

 「自分が住んでいた家に行こうと思いましたが、木が茂り、道もなくなっていて、たどり着くことはできませんでした」

 パラオでの戦争体験から77年が過ぎましたが、嵩原さんは飢えの中でこの世を去った弟の面影を忘れません。

 (嵩原安正さんの体験は今回で終わります。この連載は今後、随時掲載とします)