宜野湾村(現宜野湾市)宜野湾で生まれ育った大城芳男さん(92)は1945年1~2月の15歳のころ、食糧を増産する農兵隊に入りました。農兵隊の本拠地だった名護町(現名護市)東江原に行きます。戦禍を逃れるため、戦況も分からないまま山中での生活が続きました。大城さんの話を宜野湾中学校3年の仲宗根史季さん(15)と城間爽さん(15)が聞きました。
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《大城さんは1930年6月22日に宜野湾村宜野湾で大城家の三男として生まれました。宜野湾国民学校の高等科だった14歳のころになると、戦争の話がどんどん耳に入ってきます》
父が牛カラヤー(牛飼い)だったので、国民学校の5、6年生のころからは草刈りなどの手伝いをしていました。兄2人が兵隊にとられていたので、家の仕事の手伝いを多く任されていました。当時の宜野湾は街ぐゎーや馬場もあり、にぎやかな場所でした。今はまったく残っていませんが、松並木の街道もありました。同級生5人で手を回して届くくらいの太さの松です。それがずらーっと並んでいてとてもきれいな風景でした。
高等科になると、部落内で兵隊の姿を多く見るようになりました。大山の方にスパイがいて、枯れている松を目印に爆弾を落とすといううわさ話も聞きました。「怖いな」という気持ちが芽生え始めてきました。
《1944年10月10日、米軍の艦載機が沖縄の軍事施設から住宅まで無差別に爆撃と機銃掃射を加えました。(10・10空襲)》
気が付くと、学校は日本の兵隊さんの宿舎となり、勉強どころではなくなっていました。そのころになると空襲が時折あり、部落内のガマに家族全員で避難していることが多かったです。歩いて5分ぐらいの場所にウブガーがあり、その横に自然ガマがありました。五つはあったと思います。班ごとにガマが分けられ、一つに50人ぐらい入れました。
10・10空襲の日もガマに避難していました。音がすさまじかったです。ガマの中は広さもあり、案外つらくはありませんでした。
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《年が明けると、食糧増産隊の「農兵隊」への呼びかけがあり、大城さんは友人と共に希望します》
このまま宜野湾に残っていると、本土の軍需工業に送られるという話を聞きました。本土に行けば帰って来られないのではとの不安もあり、両親からも勧められたので、「農兵隊」に入りました。45年の1月か2月ごろ、同級生5人と宿舎がある胡屋(現沖縄市)に行きました。そこでは、家族を兵隊でとられ、働き手がいない家の畑仕事の手伝いをしました。一日中イモやサトウキビの畑を耕し、とてもきつかったです。約1カ月従事したころ、外泊届を出して、宜野湾に戻りました。空襲も激しくなっていたので、外に出られずガマに避難しそのまま残っていました。
3月ごろに農兵隊の先生が連れ戻しに来ました。両親にも「行っておいで」と声をかけられたので、先生と農兵隊の本拠地がある名護町(現名護市)に向かうことになりました。
空襲がとても激しく、照明弾が上がると昼のように辺り一面が明るくなっていました。命の危険を感じました。旧美里村(現在の沖縄市)の北美小学校の前を通り、石川まで行くと、ほとんど焼かれていて建物も何も残っていませんでした。
※続きは7月13日付紙面をご覧ください。