「遺品は家族のものでは」 激戦地の墓で発見、名乗り出るも特定できず 「戦争が憎い」悔しさにじませ 沖縄・西原町幸地


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「外間」姓の水晶製印鑑を確認する西平幸子さん(左)と、遺品を見つけた高江洲善清さん=7月24日、西原町幸地

 西原町幸地の古墓から裁縫道具や「外間」姓の印鑑など住民の遺品が見つかった件で、幸地出身の西平(旧姓外間)幸子さん(88)=那覇市=が「自分の家族のものではないか」と名乗り出て、7月24日に幸地公民館で遺品を確認した。水晶の印鑑に「見覚えはある」と語ったものの、決め手になるものはなかった。沖縄戦で本島南部に逃げる中で両親を失い、きょうだいと摩文仁近くで米軍に捕まった。戦後も苦労の絶えなかった幸子さんは「戦争が憎い」と悔しさを吐露した。

 西原町幸地で遺骨収集を続ける高江洲善清さん(70)は2017年ごろ、古墓が戦争当時のまま残っているのを見つけた。裁縫道具や「外間」姓の印鑑、「与那嶺」と刻まれた定規なども掘り出した。

 戦前、幸子さんの父親の三郎さんは洋裁店を営み、郵便配達もして一家を養っていた。手先が器用で何でも手作りをする自慢の父だった。沖縄戦直前に防衛隊に召集され、母親と幸子さん、弟や妹、祖母は古墓に隠れた。米軍の攻撃が激しくなる中、拒む祖母を残し一家は本島南部へ逃げた。幸子さんは1歳の弟をおぶって、途中で父親も合流し、与座岳の親戚の家を目指した。与座岳は日本軍が駐屯していたため、近くの集落の民家に隠れた。爆弾が落ち、両親は即死だった。

 離れた場所にいた幸子さんらは助かり、さらに逃げた。9歳の弟の腹は栄養失調でふくらみ、体にハエがたかっていた。カエルを煎じて飲ませ、命をつないだ。1歳の弟は高齢の女性から「もう亡くなっているから降ろしなさい」と言われ、背中で餓死(がし)していたことに気づいた。海岸の近くに遺体を置いて「母ちゃん、迎えに来て」と拝んだ。妹らと白い旗を持って米軍に投降した。

 幸子さんは逃げる途中で所持品を捨てたため、古墓で見つかった遺品との照合は難しい状況だ。

 戦前は軍国主義の下、幸子さんも手旗信号や竹やり訓練などに明け暮れた。幼い子どもにさえ戦う思想を強いた当時の国の方針を「無駄だった」と怒りを込める。両親を失い、戦後は両親が希望していた弟の大学進学のため、自身の進学の夢は諦めて身を粉にして働いた。「戦争をしない政治をつくっていってほしい」と若い世代に期待を託す。
 (中村万里子)