激戦地だった場所で見た遺骨はどうなったのか 記者が現場を訪ねてみると…手つかずの壕、住民は風化を懸念 沖縄・浦添市


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 沖縄戦の激戦地だった浦添市沢岻に住む嘉数幸仁さん(84)は1950年代、自宅近くの壕で多くの遺骨を目にした。今年5月、嘉数さんから「遺骨収集がされていないのではないか。調べてほしい」と本紙に問い合わせがあった。沖縄戦で首里進攻を目指し、大規模な攻勢をかけた米軍と、抵抗する日本軍との間で激戦となった沢岻。77年たった今は市街地だ。戦後、遺骨収集ボランティアの活動も行われてきた。まだ遺骨が残っているのか、現地に向かった。

嘉数幸仁さんが入ったとみられる壕=5日、浦添市沢岻

 壕があったという場所は住宅街のすぐ裏手。浦添市史によると、日本軍陣地となっていた場所だ。近くには歩兵第64旅団(団長有川主一少将)の本部があった。嘉数さんによると、壕の入り口は3カ所あった。嘉数さんは戦後、2カ所に入り、遺骨や防毒面などを目にした。日本軍が作った2段の寝台を周囲の住民が住宅などの建材として使い、寝台にあったとみられる遺骨が下に落ちていたという。

壕があったという場所の前で遺骨収集されているのか懸念を語る嘉数幸仁さん=5月30日、浦添市沢岻

 記者が嘉数さんと一緒に現場に足を運び、壕を捜したのは今年5月末。しかし、前日までの大雨に加え、現場は草木が生い茂り、行く手を阻んだ。嘉数さんはずっと気がかりだったといい、「あと何年もたてば余計分からなくなる。このままだったらかわいそうだ」と話す。しかしこの日、壕を見つけることはできなかった。

 記者は後日、県平和祈念財団が運営する戦没者遺骨収集情報センターに連絡。センターの職員と県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長と一緒に今月5日、再び現地に向かった。すると壕の入り口はすぐ見つかった。センターの職員らは、ためらうことなく腰をかがめて入っていく。壕内は枝分かれし、石が流れ込んでいた。全長は30メートルほど。U字形で最初に入った入り口から数メートル離れた別の穴から出た。

 嘉数さんは当時は頭蓋骨もあったと話したが、目視でそうした遺骨は確認できなかった。奥には、遺骨収集のために掘られたとみられる箇所もあった。仲村さんは「ボランティアが、遺骨がありそうな場所を掘ったのだろう。石を出しながら全体を見ていけば、もっと遺骨があるかもしれない」と話す。

仲村真さんがスケッチした壕内部と周辺図

 嘉数さんが証言した三つ目の壕の入り口は崩落したとみられ、見つけることはできなかった。しかし、のり面沿いに進むと数十メートル離れた場所で、日本軍が敵から隠れて射撃するために掘ったとみられる小さな壕を発見。中は火炎放射器で焼かれた跡がくっきりと残っていた。

 「まだあります」。岩下喜博センター長が呼んだ。数メートル離れた場所にさらに別の小さな壕が見つかった。仲村さんは「後から見つけた二つの壕はほぼ手つかずで遺骨収集もされていないようだ。周辺には、このような壕がまだあるだろう」とみる。仲村さんは毎年、遺骨収集ボランティアの学生を全国から受け入れている。今後、ボランティアの手を借りて壕での遺骨収集を検討する。

 沖縄戦から77年たっても当時の形を残したままの壕。そこにまだ残るかもしれない遺骨は、今の私たちに戦争の過ちを静かに問うているのかもしれない。

 (中村万里子)

 

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