「国民は軍国主義の被害者」 元学徒が戦時中に贈られた表彰状を飾らない理由


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「戦って死んだ学徒の顕彰を受け入れることはできない」と話す宮城政三郎さん=5月、那覇市の養秀同窓会館

>>飾られない表彰状…学徒の戦死を美化「教育訓練の成果」から続く

 1994年12月、「奉告慰霊祭」で養秀同窓会の富川清会長(当時)は「やっと手にすることができた。49年5カ月ぶりに皆様に奉告申し上げる機会を得た」とあいさつした。表彰状を一中健児之塔に供え、朗読した。

 これに対し、顕彰に賛同するべきではないという議論が起きた。一中の元学徒らでつくる「一中二〇会」会長の宮城政三郎さん(94)は「生き延びた元学徒には、戦死した学友に対し『すまない』という気持ちや負い目があり、(戦没者を)英霊視していた時期もあった」と話す。自身は先の戦争の意味を考え続け「国民は軍国主義の被害者であり、間違った戦争による犠牲者だ。顕彰を受け入れることはできない」という思いに変わっていった。

 2002年には、一中健児之塔のそばに沖縄戦で亡くなった生徒・職員の名を刻んだ刻銘碑を建立した。当初、同窓会は日露戦争や太平洋戦争の戦没兵士も一緒に刻銘する方針だったものの「中学生の身で戦争に動員された事実が薄れる。侵略戦争に加担した人たちと一緒にはできない」と「一中二〇会」は強く反対した。

 会の働き掛けによって、一中の関係者の追悼の在り方は変わっていった。その後も宮城さんらの元には、同窓会から「表彰状を刻銘碑の前に飾ったらどうか」という話もあったものの、飾ることはなかった。「沖縄戦を身をもって体験した県民は戦没者を美化してはならない」という強い思いからだという。

養秀同窓会の「奉告慰霊祭」を報じる琉球新報1994年12月10日付の記事

 県内の慰霊碑の中には戦没者を「英霊」と表現している碑文もある。宮城さんは「先の戦争は、国策による間違った戦争だったという認識と反省に立てば『英霊』と表現するべきではない。心情論から発する『英霊』の表現は早晩なくすべきだ」と話す。

 元教員で一中学徒資料室解説員の山田親信さんは「国民を戦争に導いていくのは軍だけじゃなく、教育の果たした役割は非常に大きかった」と指摘する。

 表彰状は一中学徒隊資料展示室の部屋の片隅に置かれ、「本土においても、沖縄戦と同様の戦闘を想定し、学徒を動員していく政府の意図がある」との説明が付されている。  (中村万里子)

<用語>沖縄戦の学徒隊 戦前の沖縄には21の師範学校・中等学校があり、男子学徒は14歳から、女子学徒は15歳から沖縄戦に動員された。各学校で学徒隊を編成し、男子は弾薬運びや伝令、戦闘参加など、女子は負傷兵の看護を命じられた。中等学校生の戦場動員は全国でも未曾有の出来事で、動員された約2千人のうち半数の約千人が亡くなったとされる。

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