飾られない表彰状…学徒の戦死を美化「教育訓練の成果」 文部大臣から沖縄の師範・一中へ「全国学徒の模範」


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一中の鉄血勤皇隊などの敢闘をたたえて贈られた表彰状

 県立第一中学校(一中)・首里高の養秀同窓会館内の「一中学徒隊資料展示室」=那覇市=にひっそりと、ある「表彰状」が置かれている。太平洋戦争中の1945年7月8日、当時の太田耕造文相が、沖縄戦で鉄血勤皇隊を編成した沖縄師範学校と県立第一中学校に贈ったものだ。両校の学徒らを、全国の学徒の模範としてたたえている。日本政府や軍部が想定していた本土決戦に全国の中等学校生を戦場動員するため、鼓舞する狙いがあった。  養秀同窓会は1994年に表彰状を入手したものの、戦没者を顕彰することは過ちだと捉えるようになったため、飾られていない。

>>表彰状を飾らない理由 生き残った元学徒たちは

 戦時中、表彰状は文部省の会議室で、文相から師範・一中両校学徒代理国民教育局長に授与された。全国版朝日新聞は「砲爆下大任に殉ず」の見出しで報じている。「両校の義勇奉公ぶりは皇国民の尊い伝統によるものだが、特に戦時教育令の皇国教学の本義を身をもって実践したものだ」とし、全国2千万の学徒に後に続くよう呼び掛けた。

 太田文相の談話は「皇国維持の大任に殉じた鉄血勤皇隊」だとし、「その敢闘ぶりは軍でも十分認められ、平素の教育訓練がもたらした成果であり、われわれの最も満足に存ずるところだ」とたたえている。全国の教職員と学徒に対し、最前線に立つべき態勢を整え、敵の撃滅にまい進するよう呼び掛けた。

 日本政府は本土決戦に向け、1945年5月に戦時教育令を公布。全ての教育を事実上停止し、学徒隊を組織することなどを定めた。本土で地上戦となった場合、沖縄と同様に中等学校生らが戦場に動員されていた可能性が高い。

 表彰状は戦後長く、行方不明になっていたが、養秀同窓会は入手した1994年、一中健児之塔の前で「奉告慰霊祭」を行った。当時は同窓会内に表彰状を歓迎する機運があったという。しかし徐々に「受け入れられない」という考えに変わっていった。(中村万里子)

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