沖縄戦事典(か行)



海軍壕/海軍司令部壕(かいぐんごう/かいぐんしれいぶごう) 1944年、 日本海軍設営隊(山根部隊) によって掘られた司令部壕。450mあったと言われて いる。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵が収容されていた。戦後しばらく放置されていたが、数回にわたる遺骨収集の後、1970年3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300メートルが復元された。(参考・旧海軍司令部壕ホームページ)

解散命令(かいさんめいれい) 旧制中学校や師範学校の生徒で組織した鉄血勤皇隊や看護要員の学徒隊は1945年6月18日から19日にかけて、解散命令を受けた。軍を離れた生徒らは南部の戦場をさまよい、多くが犠牲となった。自決した者もいた。ひめゆり学徒隊の場合、動員から解散命令までの約3カ月で亡くなった人が19人なのに対し、犠牲者全体の86%に当たる人たちは解散命令後に死亡した。
 学徒たちは1945年6月18日に解散命令を受けた後、山城丘綾や摩文仁を逃げ惑った。激しい砲弾や艦砲射撃を受けて亡くなった人たち、追い込まれた末に自ら命を絶った人もいた。

火炎放射器(かえんほうしゃき) 米軍は空や海、陸上のあらゆる場所から攻撃した。ロケットやミサイルなどの攻撃支援を担う砲兵隊(ほうへいたい)が容赦なく砲弾を撃つため、毎日平均3千トンの弾薬を陸揚げしていた。さらに、新型の装甲火炎放射器55基を沖縄に投入した。戦車に大型放射器を搭載したもので、火炎の最大射程は114メートルにもなった。米軍は、日本軍を一掃するため壕を発見すると入り口から火炎放射器を浴びせ、さらにガソリンを流して火を付けたりもした。日本軍や住民らにとって、火炎放射器の炎は「悪魔の炎」だったとされている。(「アメリカ海兵隊の太平洋上陸作戦(下)」など参照)

嘉数高台(かかずたかだい) 宜野湾市嘉数(ぎのわんしかかず)にある海抜92メートルの石灰岩からなる高台。米軍が日本軍の本格的な防御陣地に到達した1945年4月8日以降、日米両軍が激しい攻防戦を展開した激戦地である。→宜野湾市嘉数(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」)

学童集団疎開(がくどうしゅうだんそかい) 1944年7月7日、政府はサイパン島陥落を契機に沖縄を含む南西諸島から老人、子ども、女性を九州や台湾へ疎開させることを決定した。同年8月22日には、学童や一般人を乗せて那覇から出港し、九州へ向かっていた対馬丸(つしままる)が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没し、学童を含む約1500人が犠牲になった。国民学校の学童は、約6500人が熊本、宮崎、大分へ集団疎開している。疎開した学童たちは受け入れ先の学校内や寺、旅館などで引率者とともに寝泊まりをした。寒さや空腹、伝染病などで犠牲となる児童もおり、過酷な生活を強いられた。

学徒隊(がくとたい) 米軍の沖縄上陸が迫る中、日本軍は足りない兵力を補うために沖縄の14~19歳までの生徒を集めて、戦場に動員した。こうした学徒隊には約1900人(男子約1400人、女子約500人)の生徒が動員され、男子生徒は鉄血勤皇隊や通信隊として、物資を運んだり切断された電話線を直したりする任務についた。女子生徒は病院壕に配属されて負傷兵の看護を手伝った。
 当時の教育では、天皇や国のために尽くすことが国民の務めと教えられ、戦争の状況など正確な情報が国民に隠されていた。多くの生徒たちは日本の勝利を疑わずに戦場へと向かっていった。
 男子学徒隊は全動員数の約半数にあたる816人(教師24人含む)が戦死し、女子学徒隊も202人(教師13人含む)が犠牲になった。動員数や戦死者数が分からない学校もある。

学校教練(軍事教練)(がっこうきょうれん(ぐんじきょうれん)) 学校での軍事に関連する教育や訓練のこと。主に1925年の陸軍現役将校学校配属令による中等学校以上の男子生徒に対する軍事教育を指す。射撃・旗信号などの技術的な授業に加え、軍事講話・戦史などの精神教育も行った。当初、高等学校・大学で学校教練反対運動や配属将校との衝突があったが、37年の教練教授要目改正や39年の大学における教練必修化などを受け、入営前の軍事訓練としての性格が強まった。第2次世界大戦の敗戦で廃止された。(青木書店『ちゃんと知りたい!日本の戦争ハンドブック』など参照)

ガマ(がま) ガマとは自然壕を指す沖縄の言葉。琉球石灰岩が浸食されてできた鍾乳洞で、住民避難の場所となったほか、日本軍の陣地や野戦病院としても使われた。住民80人以上が「集団自決」(強制集団死)の犠牲となったチビチリガマ=読谷村=や、病院としても使われた糸数壕(アブチラガマ)=南城市=などがある。

亀甲墓(かめこうばか) 屋根が亀の甲羅の形をした墓。琉球王国時代は士族のみに許された墓の形だったが、1879年の廃藩置県からは一般庶民にも認められ、広く普及した。県内では本島中南部や那覇市首里(なはししゅり)地区によく見られる。沖縄戦では丈夫さや内部の広さから住民らの避難所となった。日本軍は米軍を攻撃するためのトーチカや陣地として利用した。このため亀甲墓は米軍の攻撃対象となり、中に避難していた住民が艦砲射撃や火炎放射器によって命を落とすことも多かった。中には避難した家族全員が命を落とす例もあったという。

かん口令(かんこうれい) 外部に情報を発表することを禁止する命令。疎開学童らを乗せた対馬丸が撃沈されたときには、日本軍による「かん口令」で、生存者や、対馬丸と船団を組んで航行していた暁空丸、和浦丸など4隻の乗船者が事実を話すことは禁じられた。両親やきょうだいを対馬丸で失った高良政弘(たから・まさひろ)さんが沖縄の祖父母に宛てた手紙など、厳重なかん口令が敷かれていたことを裏付ける資料も残されている。手紙は船長に託され、未検閲で沖縄の祖父母の元へ届いた。対馬丸撃沈の様子がつづられ、手紙の最後部分に「一行たりとも隣近所の者に知らしてはなりません。極秘です」と書かれている。手紙や電報で対馬丸のことについて書くことは一切許されず極秘にされ、沖縄の家族にも正しい情報は伝わらなかった。

艦砲射撃(かんぽうしゃげき) 軍艦による砲撃。1945年3月24日、沖縄海域に押し寄せた米軍の艦隊が沖縄本島に向け開始した。米軍は沖縄本島に上陸する4月1日までの間に、砲弾5160トンを慶良間諸島や本島に撃ち込んだとされている。艦砲射撃は米軍上陸後も間断なく続き、住民はこれを避けるために井戸の中に隠れたり壕などに逃れたりしたが、艦砲射撃により命を奪われた人も多くいた。
 戦後、生き延びた者たちが「艦砲ぬ喰ぇー残さー」(艦砲の食べ残し)と自らをたとえ、同名の民謡も生まれた。(米陸軍省戦史局編「沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い」などを参照)

規格住宅(きかくじゅうたく) 戦争で家を失った人たちのために建てられた住宅。戦後、沖縄の文化財保護に尽くした建築家、仲座久雄が設計した。「キカクヤー」とも呼ばれ、1945年の8月から、約7万5千棟が建てられた。「ツーバイフォー」(2インチ×4インチの断面)と呼ばれる米軍支給の材木を骨組みに、屋根と壁にはカヤや米軍のテントなどが使用されて、次々と住宅が造られた。
 一室住宅で広さは約6坪(約20平方メートル)。決して広くはなかったが、それまでの収容所の生活に比べると快適に過ごすことができた。材料が不足し、県内全体に行き届いたわけではなかったが、住宅が不足している状況の中で大きな役割を果たした。(参考・「北谷町史」第6巻など)

北中城村(きたなかぐすくそん) 沖縄本島中部の東側にある北中城村(きたなかぐすくそん)は沖縄戦当時、現在の中城村(なかぐすくそん)と一つの村だった。米軍が1945年4月1日に北谷(ちゃたん)海岸に上陸した際には、海からは艦砲射撃、上空からは爆弾が落とされた。その様子を「北中城村史」では「世の終末を思わせるほど」だったと記録している。
 4月3日に島袋(しまぶく)を制圧した米軍は4日にも喜舎場(きしゃば)、仲順(ちゅんじゅん)を突破して、東海岸に到達した。旧中城村の犠牲者数は4059人で、大半が一般村民だった。北中城村は46年5月20日、戦後の米軍による土地接収で交通に影響が出たことなどから中城村から分村した。(「北中城村史」参照)

北中城村の住民投降(きたなかぐすくそんのほりょ) 北中城村は上陸した直後の米軍に捕らえられた住民が目立った。これは、米軍が上陸した翌日の4月2日に北中城方面への本格的な進攻を始め、避難する時間的な余裕がなく、村内にとどまる人が多かったことや駐屯していた第62師団独立歩兵第12大隊(石部隊)が1日時点で米軍に圧倒され敗走したため、激しい地上戦闘がほとんどなかったことが理由として考えられる。住民が隠れていた壕や墓に日本兵がほとんどいなったことや英語が話せる移民帰りの住民がいたことも米軍への投降を容易にした。(「北中城村史」参照 注・同村史では一般住民が米軍に保護された事例も捕虜と表記しています)

北飛行場(きたひこうじょう) 読谷村(よみたんそん)の中央部にある北飛行場は旧日本軍の航空部隊の後方支援基地として1943(昭和18)年から44年にかけて建設された。「読谷村史」によると、読谷村民をはじめ県内全域から多くの住民が徴用され、毎日少なくとも7千人を超える住民が作業に従事していたという。農業が生活手段だった村民にとって大きな痛手となった。戦後は米軍が読谷補助飛行場として整備、拡張し沖縄の本土復帰後も米軍によるパラシュート降下訓練などがたびたび行われていた。同訓練で空から落ちてくる物資による事故が相次ぎ、人が亡くなる事故もあった。2006年にようやく読谷村に全面返還された。

鬼畜米英(きちくべいえい) 第2次世界大戦時、敵国であるアメリカやイギリスに対する蔑称として用いられた用語。「鬼畜」は本来の意味である鬼と畜生から転じて、残酷な行いをする者を指す。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

宜野座と避難民(ぎのざとひなんみん) 米軍の進攻に先立ち、沖縄県は第32軍の要求を受け、本島中南部の60歳以上のお年寄りと国民学校以下の子どもを1945年3月下旬までに北部へ疎開させる計画を立てた。しかし、実際に疎開することができたのは約3万人。多くの避難民は、疎開する途中で戦闘に巻き込まれ、北部への移動を断念した。実際に北部に疎開した人たちも食糧難に苦しんだ。
 米軍は、占領した地域に収容所を設け、住民を保護した。45年6~9月にかけて、宜野座地区には、10万人以上の難民が収容されていたと考えられている。負傷と飢え、さらにマラリアなどによって、たくさんのお年寄りや子どもが亡くなった。

宜野湾市嘉数(ぎのわんしかかず) 沖縄本島中部・現在の宜野湾市南西部にある高台。4月6日ごろから約20日間にわたり、日米が攻防を繰り広げた激戦地の一つ。日本軍は嘉数高台(かかずたかだい)=海抜92メートル=にトーチカを設け、北谷(ちゃたん)方面からきた米軍を迎え撃った。また、急造爆雷を抱えた日本兵が戦車に体当たりする肉弾戦も繰り広げられた。
 米軍は4月19日、戦車30台を出したが、日本兵の猛攻撃を受け、死傷者158人、戦車22台を失った。約20日間の戦闘を経て4月24日、日本軍は嘉数高台を離れ、浦添(うらそえ)の前田高地(まえだこうち)に移動した。(宜野湾市史、1985年発行 石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著「大学生の沖縄戦記録」参照)

宜野湾村(ぎのわんそん) 現在の宜野湾市。宜野湾村民は1944年8月ごろから学童疎開が始まった。宜野湾、普天間(ふてんま)の両国民学校の児童52人は宮崎県東郷村(とうごうそん)(現日向市(ひゅうがし))の坪谷(つぼや)国民学校へ、嘉数(かかず)国民学校の児童32人は同県の福瀬(ふくせ)国民学校へ疎開した。村民の一部は米軍上陸前の45年2月15日から、今帰仁村(なきじんそん)平敷(へしき)、謝名(じゃな)、崎山(さきやま)への避難を開始したが、ほとんどが集落内に残り地域の自然壕などに隠れた。
 地域別の犠牲者は嘉数高台(かかずたかだい)の激しい戦闘などに巻き込まれる形で嘉数(かかず)、佐真下(さました)、我如古(がねこ)、志真志(しまし)、長田(ながた)の南側地域で多くなっている。(宜野湾市史など参照)

義勇隊(ぎゆうたい) 各市町村ごとの青年学校の生徒を中心に組織された。兵役法に基づくものではなかったが、沖縄戦では軍人でない一般の男女が半強制的に参加させられた。
 3月末にはアメリカ軍の攻撃が始まったため、ガマなどに避難している住民を直接動員する形もあった。義勇隊の主な任務は、アメリカ軍の上陸前は陣地構築などで、上陸後は戦場での弾薬・食料の運搬であったが、直接戦闘に参加させられた事例もあった。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

教育勅語(きょういくちょくご) 明治天皇の意思として1890(明治23)年10月に発表された教育の基本方針。日本は歴代の天皇によってつくられ、治められてきた国であるとして、親孝行や国の法律を守ることを求めている。もしも国が危険なことになれば命を捧げて天皇を助けなければならないと説いた。
 国内の学校では大きな行事の時、校長が教育勅語を読み上げた。沖縄にも配布され、天皇の写真(「御真影」)とともに、天皇を中心とした日本の国民として沖縄の児童生徒を育てる教育(皇民化教育)で使われた。

教育の軍事化(きょういくのぐんじか) 1938年6月から学徒勤労動員が始まり、39年には教育機関であった青年学校が義務化された。兵隊に召集する前から、軍事訓練を徹底させることを目的にした政府の政策だった。今の小学校にあたる尋常小学校も41年から国民学校となり、国のために戦う人を育てる「皇国民の錬成」に力を入れた。国語を学ぶと同時に愛国精神を育てる「国民科」と武道などを通し体を鍛える「体練科」の授業が重視された。44年7月にサイパンが陥落すると、県内は地上戦の準備が進められ、国民学校の子どもらも防空壕掘りに参加した。

強制集団死(きょうせいしゅうだんし)→「集団自決」を参照

斬込隊(きりこみたい) 沖縄師範学校男子部の生徒が所属した鉄血勤皇師範隊に設けられた隊の一つ。肉迫攻撃隊、突撃隊という名称も使われている。米軍の陣地や戦車へ突撃するなどの任務があった。急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って米軍への自爆攻撃をした人もいた。斬込隊のほか築城隊、千早隊があった。

金武村の住民避難(きんそんのじゅうみんひなん) 米軍上陸後、金武村(当時)の金武、並里(なみざと)両区に米軍が進攻してきたのは1945年4月5日ごろだと考えられている。中南部からの避難民により米軍上陸を知った住民は山間部や北部方面に避難した。中には「死ぬのなら自分の家で」と考え避難しない人々もいた。大規模自然壕(ガマ)が金武区には三つ、並里区には四つあり、多くの人々が隠れていた。上陸前の45年3月23日早朝から空襲や艦砲射撃といった攻撃が本格化した。ちょうどこの日は学校の終業式が予定されていたが、それどころではなかった。(「金武町史第二巻『戦争・本編』」参照)

国頭村への避難民(くにがみそんへのひなんみん) 1944年の10・10空襲の後、中南部で焼け出された約1800人の避難民が国頭村内に流入、学校や村の集会所、民家に収容された。45年1月に着任した島田叡(しまだ・あきら)県知事は高齢者や子ども、女性の北部への緊急疎開を決定、避難が激増する。
 「辺土名字誌」によると同村では1万7889人を収容、うち辺土名(へんとな)では2187人の割り当てとなり、住民は避難小屋造りに心血を注いだ。同年4月には米軍が本島に上陸し、中南部からの避難民は着の身着のまま北部に殺到した。戦線を離脱した日本軍の敗残兵も含め、約3万人が国頭村の山中に逃れ、深刻な食糧難となった。

熊本県への疎開(くまもとけんへのそかい) 熊本県は1944年10月1日時点で、沖縄県からの学童疎開を27校、2602人(関係者を含めると3056人)受け入れた。当初、学童は温泉地に割り当てて旅館を宿泊所としていたが45年6月ごろ、空襲の激化により山間部へ再疎開した。44年10月ごろの資料によると、一般疎開では8094人の沖縄県民が熊本県全域に広く分散していた。生活習慣の違いなどから誤解を受けることもあったが、多くは地域社会に参加し、地元の人々からも食べ物の差し入れなど援助があった。(県平和祈念資料館「第6回特別企画展 沖縄戦と疎開」参照)

軍国主義(ぐんこくしゅぎ) 軍事を主要な政策とし、政治、経済、教育などの組織を戦争のために備え、武力により国家の目的を遂げようとする主義。(参考・字楚辺誌『戦争編』)

軍事訓練(ぐんじくんれん) 国民学校では上級生になると軍事訓練が始まった。竹やりでルーズベルト米大統領やチャーチル英国首相のわら人形を突き刺す訓練や、空襲を想定して、校舎近くの壕に避難する訓練があった。隊列を組んでの行進訓練は繰り返し行われた。体練(体育)や朝礼、集団登校で行進する様子は、まるで小さな軍隊だったと言われる。手旗信号や戦闘機の爆音を聞き分ける音感訓練もあった。
 運動会でも軍事色が強まり、鉄かぶとをかぶり、3人一組で丸太を抱えて走る「肉弾三勇士」などの種目が登場した。遠足も隊列を組んで長距離を行進や駆け足をする行軍や競歩鍛錬会に変わった。

軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ) 1882年1月4日、明治天皇が軍人の心構えを陸海軍人に示した言葉。天皇による軍の統率を強調し、軍人に求める姿勢として忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五つを求めた。沖縄では1926年に始まった現役将校による学校教練で、軍人精神をたたき込むために「軍人勅諭」の暗唱などが取り入れられるようになった。
 沖縄戦の5年前の40年には、当時の淵上房太郎(ふちがみふさたろう)知事が「軍人勅諭」の実践を一般県民にも求めた。(『沖縄県史各論編第6巻 沖縄戦』参考)

慶良間諸島の米軍上陸作戦(けらましょとうのべいぐんじょうりくさくせん) 1945年4月1日の沖縄本島上陸を前に、米軍は同年3月23日、慶良間諸島への攻撃を始めた。慶良間諸島を弾薬や燃料の補給基地などに適しているとみなし、沖縄本島への上陸作戦に不可欠な場所と考えていたためだった。
 米第77歩兵師団は同月26日、阿嘉島(あかじま)、慶留間(げるま)島、座間味(ざまみ)島、屋嘉比(やかび)島に上陸し、翌27日には渡嘉敷(とかしき)島に上陸。29日までには慶良間諸島全域を攻略した。米軍の上陸作戦の課程で住民の「集団自決」(強制集団死)が起きた。

県庁連絡員(けんちょうれんらくいん) 1944年10月10日、大空襲が那覇市街地を襲った。その後、多くの県外出身の県庁職員が沖縄を離れ、県庁機能は低下。45年、市内で焼け残った民家を借り、課ごとに分かれ業務に当たった。課と課の事務連絡を担当させるため、県立第一中学校の3年生19人が県庁連絡員として徴用された。3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成されると、4月上旬には県庁連絡員は学校に戻り、鉄血勤皇隊員として各部隊に配属された。

県内疎開(けんないそかい) 沖縄戦では、米軍の本島上陸は避けられないとして、日本軍は本島中南部の住民を北部の山岳地帯に避難させる「県内疎開」を県に指示した。1945年2月7日以降、県庁で食料増産、北部地区への退避について会議が重ねられ、中南部の住民を北部に避難させる計画が立てられた。しかし、移動手段が限られていることや、食料問題、住み慣れた地域を離れることへの不安などから県内疎開は思うように進まなかった。結果的に北部に疎開した住民は8万5千人程度で、少なくとも10万人の住民は中南部にとどまったといわれている。(出典・県教育委員会「沖縄戦研究II」)

県立第三高等女学校(けんりつだいさんこうとうじょがっこう) 1930年、名護町(現在の名護市)に開校。創立当時は1~2学年合わせて生徒85人、職員5人だったが、沖縄戦前年の44年には職員20人、生徒は恩納村(おんなそん)以北から1学年110人の計440人が在籍していた。通学用の交通手段がない生徒が多く、寄宿舎が設けられていたが、7月に日本軍が校舎を兵舎にすると、寄宿舎も病院(病棟)となった。生徒らは壕掘りや看護教育などに専念し、45年3月以降は八重岳野戦病院(陸軍病院名護分院)に配属されるようになった。

県立二中の学徒隊(けんりつにちゅうのがくとたい) 県立第二中学校(現那覇高校)で編成された学徒隊には、鉄血勤皇隊(約50~60人)と、2、3年生が中心の通信隊(約110人)があった。1944年の10・10空襲で二中の校舎が消失していたため、生徒は45年2月下旬、金武(きん)国民学校(現金武小学校)に移動し、戦闘訓練や陣地造りをした。1945年3月19日、金武に移動した生徒で鉄血勤皇二中隊が組織されたが、金武国民学校の校舎も空襲で焼失したため、3月下旬に解散したとされている。残った生徒およそ15人は北部地域を転々とし、戦死者が出た。
 一方、通信隊は南部地域に配属され、無線の送受信や電報配達、壕掘りなどをした。激戦の中で多数の戦死者が出た。
 学徒隊で115人、召集されなかった生徒も含めると186人が亡くなったとされている。

甲辰国民学校(こうしんこくみんがっこう) 1904年5月28日に、現在の那覇市久茂地のパレットくもじ付近に開校した「甲辰尋常小学校(こうしんじんじょうがっこう)」が始まり。その後、天皇の命令で出された国民学校令によって41年4月1日から「甲辰国民学校」に改称した。44年の「10・10空襲」で消失し、沖縄戦とともに閉校した。対馬丸に乗り犠牲になった児童もいた。那覇中心地のパレットくもじ西側の敷地には、甲辰尋常小と国民学校の跡碑が建てられた。(「那覇市教育史写真集」参照)

越来村森根(ごえくそんもりね) 1945年9月7日、沖縄戦が公式に終結したことを意味する降伏調印式が開かれた場所。当時は米軍の第10軍司令部があり、今も米軍嘉手納基地内にある。式には米軍から陸軍司令官のジョセフ・スティルウェル大将、日本軍から宮古島に駐留していた第28師団の納見敏郎(のうみとしろう)中将ら3人の代表者が出席。文書に署名し、1時間ほどで終了した。
 森根は、戦前はサトウキビやイモの畑が広がる緑豊かな集落だったが、戦後は米軍に土地を接収された。式があった場所は「ピースガーデン(平和の園)」との名称で整備され、調印文書が刻まれた石碑がある。

護郷隊(ごきょうたい) 1944年9月、本島北部を拠点に活動する遊撃隊として組織された。その幹部の多くは、スパイ養成機関とされる陸軍中野学校出身者だった。
 護郷隊の目的は、正規軍の崩壊後、敵の後方をかく乱して戦力を消耗させることだった。名護市多野岳(たのだけ)に第1護郷隊(正式名・第3遊撃隊)、恩納村恩納岳に第2護郷隊(正式名・第4遊撃隊)が配備された。
 護郷隊には、主に徴兵適齢期の16歳から19歳の青少年が召集され、情報収集やゲリラ戦に参加させられた。第1護郷隊91人、第2護郷隊73人が米軍上陸後に戦死した。

国民学校(こくみんがっこう) 1941年4月に開設された初等教育機関。皇国思想を基本とする教育審議会答申を受けて41年3月、勅令(天皇の命令)として「国民学校令」「同施行規則」を公布、4月から実施され、これまでの尋常小学校が国民学校となった。授業で竹やり訓練や防空壕への避難訓練なども行われたほか、飛行場工事にざるやくわを片手に駆り出されるなど、戦争に向けた準備へ動員されていった。また、沖縄の国民学校の校舎は沖縄戦に向けて派遣された日本軍の部隊が宿舎として利用し、午前や午後のみの2部授業になった学校もあった。

国民徴用(こくみんちょうよう) 戦争が激しさを増す中、日本は航空機や艦船などの生産が急務になり、国民を強制的に軍需産業で働かせるようになった。1939年7月に国民徴用令が施行され、沖縄からの徴用は40年12月に始まった。県内には軍需企業に認定される企業がなかったため、43年までに4千人以上が本土の軍需工場へ送り出された。44年3月に第32軍が創設されてからは状況が一変した。第32軍は全県に15の飛行場を建設するため、県内の労働力を根こそぎ動員し始めた。そして45年に入り、米軍が沖縄に迫ってくると、多くの徴用工は防衛隊や義勇隊に編成され、沖縄戦の渦中に駆り出された。(「沖縄県史」参照)

国立沖縄戦没者墓苑(こくりつおきなわせんぼつしゃぼえん)1979年に創建。沖縄県内で収集された約18万余の沖縄戦戦没者の遺骨が納められている。県内での遺骨収集は46年、糸満市米須一帯に移った旧真和志村(現那覇市)の人々がいち早く取り組んだ。摩文仁一帯で約3万5千の遺骨を収集し、石を積み上げて魂魄の塔を建立した。57年、那覇市識名に戦没者中央納骨所が建設されると魂魄の塔の遺骨は同所に移され、さらに79年には国立沖縄戦没者墓苑に移された。

コザ孤児院(こざこじいん) 戦争で親を亡くした子どもたちを収容するために、1945年5月、米軍が設置した民間人収容所キャンプ・コザ内(現在の沖縄市住吉、嘉間良)に置かれた。当初200人規模の定員を予定していたが、7月下旬には約800人を数え、そのうち175人は病院に入院していた。孤児院に収容されていた子どもたちの正式な数は分かっていない。当時、県内には10カ所の孤児院があり、コザ孤児院は最大規模だった。49年に各地の孤児院や養老施設を統合し、那覇市首里に「沖縄厚生園」が設立されたのに伴い、閉院された。

孤児院(こじいん) 孤児院は、戦中から米軍によって各地の収容所に設置されていた。乳児や幼児も多くいたが、栄養失調が原因で亡くなる子が相次いだ。
 戦後、孤児院は養老施設などと統合、整理されていき、1949年には那覇市首里に「沖縄厚生園」が設置された。

湖南丸(こなんまる) 1943年12月21日に米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した船。19日、一般乗客568人を乗せ、鹿児島に向けて那覇港を出発したが、21日午前1時38分、鹿児島県口永良部島(くちのえらぶじま)の西の海で攻撃を受けて沈没した。約400人の乗客は護衛艦に救助されたが、1時間後、その船も魚雷攻撃で沈没した。生き残った人はわずか5人だった。
 日本軍は県民の動揺を恐れ、軍事秘密にしていた。潜水艦による商船への攻撃は当時の国際法でも禁止されていたが、沖縄近海でのアメリカ潜水艦による船舶への攻撃は42年2月から始まり44年7月までに58隻が沈没した。

コンセット(こんせっと) 米軍が沖縄戦で本島に上陸する際に使用していた仮設兵舎。半円状のかまぼこのような形をしていたので「マルヤー」とも呼ばれた。終戦後は払い下げられて住居になったり、学校や病院、役所などに利用されたりした。トタンを使用した簡素な建物だったために夏は暑く、隙間風や雨漏りがあったほか、台風で吹き飛ばされることも珍しくなかったようだ。

魂魄の塔(こんぱくのとう) 糸満市米須(いとまんしこめす)にあり、沖縄戦後初めて造られた慰霊の塔。「霊魂と共に生きる」という意味を込め「魂魄」と名付けられた。米須に集められた真和志村民(まわしそんみん)が野ざらしだった遺骨を収集したのがきっかけ。最初は米須海岸にある洞窟に納めていたが、予想以上に遺骨が集まり、米軍が提供したセメントや周囲にあった石を積み上げて1946年2月に慰霊碑を建てた。最終的には約3万5000体の遺骨を納めた。
 75年に戦没者中央納骨所(那覇市)に遺骨が移され、さらに79年には国立沖縄戦没者墓苑(こくりつおきなわせんぼつしゃぼえん)(糸満市)に遺骨を移された。

玉音放送(ぎょくおんほうそう) 天皇の肉声(玉音)を放送すること。1945年8月15日の終戦の詔書を指すことが多い。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」)