沖縄戦事典(た行)



第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん) 20世紀初め、ヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と、ロシア・フランス・イギリスの「三国協商」が対立していた。
 1914年にセルビアの民族主義者がオーストリアの皇太子を殺害する事件が起きたことがきっかけで、イギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国と、ドイツ・オーストリア・トルコを中心とした同盟国との間で世界規模の対戦が起こった。日本は日英同盟を理由に連合国の一員として参戦した。18年、ドイツの降伏によって連合国側の勝利に終わった。(参考・高等学校 琉球・沖縄史)

第一野戦病院(だいいちやせんびょういん) 第24師団が東風平村(こちんだそん)(現八重瀬町(やえせちょう))富盛(ともり)の八重瀬岳に置いた病院壕。白梅学徒隊がわずか18日間の看護教育を経て、第一野戦病院に配置された。負傷者の増加により4月に新城(あらぐすく)分院を、5月には東風平(こちんだ)分院を開設、それぞれ5人の白梅学徒が派遣された。
 6月3日に両分院は閉鎖され、翌4日に第一野戦病院に解散命令が下されると、衛生兵や看護師は現糸満市真栄里(いとまんしまえざと)の「国吉の壕」に後退した。解散命令を受けた学徒たちは土地勘もないまま、砲弾飛び交う中での避難を余儀なくされた。

第32軍(だいさんじゅうにぐん)→32軍を参照

第二護郷隊(第四遊撃隊)(だいにごきょうたい) 護郷隊(遊撃隊)は、本島北部でゲリラ戦を行い、敵のかく乱や戦力を消耗させることを目的に編成された、大本営直轄の秘密部隊。そのうち第二護郷隊は、東京の陸軍中野学校を卒業して大本営から派遣された幹部数人と、国頭村(くにがみそん)や大宜味(おおぎみ)村、東(ひがし)村、読谷(よみたん)村、北谷(ちゃたん)村など9村から選抜された16~18歳の少年を含む計393人で構成されていた。恩納村の恩納岳に拠点を置き、米軍の進路を遮断するための橋や道路の爆破、偵察や奇襲作戦などを展開したが、米軍の猛攻を受け、73人の犠牲者を出した。

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん) ドイツがヨーロッパ侵略政策を拡大し、1939年にポーランドへの侵攻を始めた。イギリス・フランスはドイツに宣戦布告を行い始まった世界規模の対戦。(参考・高等学校 琉球・沖縄史)

大日本青少年団(だいにほんせいしょうねんだん) 1941年に組織された大日本青少年団には国民学校初等科3年生以上の少年少女が入団していた。青少年団は戦時体制が進むにつれて、翼賛体制の一翼を担っていった。青少年団は各字ごとに分団も結成され、各分団ごとに分団旗が作られた。
 集団登校も各字ごとの分団で登校した。登下校時には国民学校内にある天皇、皇后の写真「御真影」を納めた奉安殿(ほうあんでん)の前で最敬礼もした。青少年団は軍隊式の「閲兵分列行進」の訓練を行い、隊長である校長の査察を受けた。日本が戦争に突き進むにつれ、戦意高揚のために軍隊方式の活動は学校だけでなく、地域の中でも意識的に行われていた。

大本営(だいほんえい) 戦時中に設置された日本軍の最高統帥機関。天皇の命令を発令する最高司令部としての機能を持っていた。大本営が発表する内容は、日本の陸軍と海軍の戦況に関することばかりで、公式発表として扱われていた。
 1942年6月のミッドウェー海戦での大敗を境に、敗戦の事実を伏せたり、損害の程度を矮小化したりする発表が行われた。
 終戦直前には、敗戦したにもかかわらず、戦果を誇張し、事実と異なる発表を行っていた。現在では、信ぴょう性が全くなく、虚偽の公式発表の代名詞になっている。ほとんどのマスコミは戦前、軍部の言論弾圧もあり、大本営発表をそのまま流し、戦意高揚の記事を書き続けた。

台湾からの引き揚げ(たいわんからのひきあげ) 敗戦後、台湾にいた沖縄出身者は軍人や疎開者、南方引き揚げ者を含め3万人余りだったとされている。他都道府県の出身者は1945年12月下旬から引き揚げが始まったが、沖縄だけは許可が下りなかった。台北の県人会などが日本政府や米軍などに訴え、米軍のLST(戦車揚陸艦)や日本海軍の駆逐艦によって沖縄に引き揚げた。
 最後の引き揚げ船が台湾を出港したのは46年12月25日だった。宮古や八重山の出身者の中には、独自で木造船を造り、故郷に戻った人も多くいた。(又吉盛清「大日本帝国植民地下の琉球沖縄と台湾」、赤嶺守編「『沖縄籍民』の台湾引揚げ証言・資料集」参照)

高嶺村(現糸満市)国吉の戦闘(たかみねそん(げんいとまんし)くによしのせんとう) 1945年6月初め、避難民であふれる国吉・真栄里(くによし・まえざと)一帯に日本軍が撤退し、追撃してくる米軍を迎え撃つ準備を始めた。「糸満市史」によると、米軍は同月11日に国吉丘陵への進撃を開始したが、日本軍の反撃を受けた。そこで米軍は夜間に奇襲攻撃を仕掛けるなど、17日に真栄里丘陵が制圧されるまで日米両軍の間で激しい攻防戦が繰り広げられた。
 国吉や真栄里一帯に隠れていた大勢の避難民は、攻防戦に巻き込まれて命を落とした。ただ、もともとその地域に住んでいた人たちの多くは、四つの共同避難壕に隠れていたので、米軍の猛烈な攻撃の中を生き延びることができた。

竹やり訓練(たけやりくんれん) 地上戦に備え、学校や集落単位で実施された戦闘訓練。わら人形を敵国の指導者(アメリカ大統領のルーズベルトやイギリス首相のチャーチルなど)に見立てて竹やりなどで突いた。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

多野岳(たのだけ) 名護市北部にある標高385メートルの山で、太平洋と東シナ海を望む景勝地。陸軍中野学校出身の青年将校によって県内の少年を中心として組織されたゲリラ部隊「護郷隊(ごきょうたい)」が、1944年から45年はじめにかけて、急襲作戦の拠点を置いた。米軍の防空ミサイルの沖縄配備計画に基づき、56年に強制接収されて、72年の返還完了まで防空ホークミサイル基地として使用された。

玉城村の収容所(たまぐすくそんのしゅうようじょ) 1945年6月3日ごろ、米軍は知念半島(ちねんはんとう)と玉城村(たまぐすくそん)のほぼ全域を占領し、知念半島を非戦闘地域として遮断した。その後米軍は、親慶原(おやけばる)、百名(ひゃくな)(仲村渠(なかんだかり))を含む知念半島を避難民の収容地区に指定した。保護された避難民は、戦禍を免れた家屋や仮設テントなどに収容された。
 10月から、沖縄本島各地の収容所から旧居住地への帰村が部分的に認められると、米軍の指示で、船越(ふなこし)に帰村者受け入れの事務所が設置された。島尻地区が開放されるまでの間、船越は島尻出身の人が一時的に生活をする、島尻全体のベースキャンプ的役割を担った。(玉城村史参照)

千早隊(ちはやたい) 沖縄師範学校男子部の生徒が所属した鉄血勤皇師範隊の情報宣伝隊。住民が避難している壕を回っては、日本軍発表の戦況を口頭で伝えた。同時に首里城正殿の後方にある鉄血勤皇師範隊の拠点・留魂壕で印刷した「沖縄新報」を配る役目を担った。

チビチリガマ(ちびちりがま) 読谷村波平(よみたんそんなみひら)の集落から西へ500メートルほどの所にある。約140人の住民が避難していた。「殺さないからここを出なさい」という米軍の呼び掛けに応じず83人が「集団自決」(強制集団死)で亡くなった。6割が18歳以下で、親に殺された子どももいた。
 チビチリガマから約1キロ東にあるシムクガマには約千人が避難していたが、投降に応じ、強制集団死は起こらなかった。(読谷村史「戦時記録」など参照)

忠魂碑(忠霊塔)(ちゅうこんひ(ちゅうれいとう)) 戦死した兵士の魂を顕彰するために建てられた記念碑。碑銘を著名な軍人が書いたり砲弾などを装飾に使用したりしていた。戦争犠牲者を悼む戦後の慰霊碑とは異なり、戦死した兵士を「英霊」と位置づけるなど、軍国主義的な性格が強かった。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

長勇(ちょう・いさむ) (1895~1945)第32軍参謀長。陸軍士官学校・大学校を卒業し参謀本部などを経て、1944年7月に沖縄戦の作戦面における最高責任者となる。米軍上陸後、八原博通高級参謀の主導によって本土決戦までの時間稼ぎを意図した戦略を続けてきた。長参謀長は、それとは矛盾する形で攻勢をかけないことを主張。牛島満司令官の判断で、5月4日に総攻撃に転ずるが、多くの兵を犠牲にして失敗。45年5月下旬、軍司令部の首里撤退により摩文仁の壕に移り、6月22日(23日説が有力)に牛島司令官とともに自決。同日、沖縄戦の組織的戦闘は終了した。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」など)

徴用(ちょうよう) 戦時などで国家が国民を強制的に呼び出し、一定の仕事に就かせることをいう。太平洋戦争中、男性が戦場に駆り出されたことや戦況の悪化などから国内の労働力は急激に落ち込んだ。当時の政府は、労働力の増強を目的に女性や学生などを勤労奉仕という形で徴用し、全国の軍需工場などでの作業に従事させた。
 1938年3月に国家総動員法を、39年には国民徴用令を公布して国民の年齢や性別を問わずに徴用できる体制をつくった。徴用は人だけではなく船や車など物資に対しても行われた。(参考・太平洋戦争研究会著「写説 太平洋戦争」、石垣市市史編集室編「市民の戦時戦後体験記録 第三集」)

津嘉山壕群(つかざんごうぐん) 津嘉山壕群は南風原村(当時)津嘉山の高津嘉山とそれに連なるチカシモーの地下に構築された。1944年夏ごろからつるはしによる手掘り作業が始まり、同年11月ごろには約2キロに及ぶ壕の大部分が完成した。当初は第32軍の司令部壕として構築されたが、司令部中枢が首里に決まってからは、経理部など後方支援部隊が配属された。
 45年5月27、28日には、南部撤退途中の牛島満司令官らがこの壕に立ち寄ったことが分かっている。終戦後、収容所から津嘉山に戻ってきた住民らは壕の中から家を造る材料として坑木を抜き取ったという。2006年、国道工事のため壕の一部が埋められた。

対馬丸(つしままる) 九州へ疎開に向かう学童らを乗せて航行中、米潜水艦に沈められた輸送船。
 日本郵船の貨物船として英国で建造され1914年竣工。6754トン、全長135・64メートル、速力12ノット。北米航路やパナマ経由ニューヨーク線に就航。41年から陸軍に徴用され軍用船として軍団の輸送などに当たった。
 1944年8月22日午後10時すぎ、那覇から長崎に向かう途中、トカラ列島の悪石島から北西約11キロの海上で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没した。沖縄戦を避けて九州へ集団疎開する国民学校学童(6~15歳)を含む1788人を乗せており、1484人(2020年現在の氏名判明分)が犠牲になった。学童の犠牲は784人。→ボーウィン号
 生存者や船団の乗船者らは、日本軍によるかん口令で、沈没までの経緯について話すことを禁じられた。→かん口令
 対馬丸は「暁空丸」(6854トン)、「和浦丸」(6804トン)と船団を組み、3隻合わせて疎開者約5000人を乗せていた。護衛には駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」が当たっていた。
 那覇市の対馬丸記念館は、犠牲者の鎮魂と、事件を後世へ継承する目的で2004年8月22日に開館した。

鉄血勤皇隊・学徒隊(てっけつきんのうたい) 沖縄戦で沖縄県師範学校、県下各中学校の男子生徒らで編成された学徒隊の総称。健児隊ともいう。学校別に各部隊に配属され、通信や情報伝達、食糧調達のほか斬り込みなどの戦闘も命令された。日本軍の部隊に学校ごとに配属され、通信、情報伝達、食糧調達などの業務のほか、戦闘も命じられた。
 ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)によると、沖縄県全体で少なくとも男子学徒1418人が動員され、792人が戦死した。

鉄血勤皇隊の入隊申込書(てっけつきんのうたいのにゅうたいもうしこみしょ) 1945年の3月24、25日ごろ、寄宿舎で合宿していた県立第一中学校の生徒たちは一時的に帰宅が許され、家族と面会することができた。鉄血勤皇隊に入隊するための申込書に親権者から承諾印をもらうための帰宅だった。多くの生徒は親から承諾の印鑑をもらい、入隊した。中には親から反対された生徒もいた。

鉄の暴風(てつのぼうふう) 約3カ月に及んだ沖縄戦で米軍は空襲や艦砲射撃を多量に打ち込んだ。無差別に打ち込まれる砲弾のさまを「鉄の暴風」と表現する。→艦砲射撃

テニアン島(てにあんとう)  沖縄から南東方面に2千キロ以上離れた太平洋の北マリアナ諸島にある島。北東約8キロにはサイパン島がある。戦前、テニアンには約1万5千人の日本人が住んでいて、約6割は沖縄県人だった。
 太平洋戦争で1944年7月に米軍が上陸すると島は激戦地になり、激しい爆撃や艦砲射撃が繰り返された。8千人近くいた日本兵のほとんどが戦死し、民間人も約3500人が亡くなった。
 米軍は島の北西方面から上陸し、南方に向かって侵攻した。米軍に追い詰められた人々の中には、島の最南端の崖から飛び降りて亡くなる人もいた。
 米軍占領後は日本への空襲の拠点となり、広島と長崎に原爆を投下したB29爆撃機もここから飛び立った。

陶器製造産業先遣隊(とうきせいぞうさんぎょうせんけんたい) 沖縄戦の後、那覇市の市街地がほとんど米軍の物資集積所となり、部隊が駐屯していたため、立ち入り禁止区域となった。ほかの町村では徐々に帰郷が進んだが那覇は遅れた。1945年11月、陶器製造産業先遣隊として103人、設営と瓦製造の目的で136人が産業復興の名目で壺屋一帯に入り、那覇の復興が始まった。
 49年に米軍政長官シーツ少将は那覇を沖縄の首都とすると発表。その後、旧那覇市街地が解放されるようになり、那覇は再び繁栄していくこととなった。

東条英機(とうじょうひでき) (1884~1948)太平洋戦争開戦時の首相。陸軍軍人を経て1941年10月18日就任。1944年7月9日のサイパン陥落の責任を取り、同月22日に辞任した。第2次世界大戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)で「平和に対する罪」などで訴追された。48年12月12日に絞首刑判決を受け、12月23日に執行された。

トーチカ(とーちか) 機関銃や火砲による射撃が可能な、掩蓋(えんがい)を有する防御陣地。散兵壕に付帯して構築されることがあった。「特火点」「有蓋掩体」とも呼ばれた。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

渡嘉敷島(とかしきじま)渡嘉敷島は那覇の西約40キロにある慶良間諸島の島。1945年3月23日から米軍艦載機による空襲が始まり、集落のほとんどが焼けた。米軍は沖縄本島上陸に先立ち、26日に慶良間島に進攻し、渡嘉敷島には27日に上陸した。その翌日の28日、米軍に捕らわれることを拒む住民は、家族や親せき同士で互いに殺し合う「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた。犠牲者は330人にのぼった。

特攻隊(とっこうたい) 糸満市史などによると、1945年に大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定。作戦の一環として航空戦力による米軍への打撃を計画し、搭乗機自体を兵器として敵艦に体当たりするという自爆を前提とした「特攻」作戦も実施した。10代の未熟な搭乗員まで動員された。組織的・計画的特攻が沖縄戦でもあった。
 作戦は「天号(てんごう)」と称され、米軍が慶良間島(けらまじま)に上陸した同年3月26日に発動された。九州などから約2300機の特攻機が出撃したが、奄美諸島上空で撃ち落とされ、沖縄本島周辺には約10%が到達できたのみだった。

轟の壕(とどろきのごう) 糸満市伊敷(いとまんしいしき)にある全長1キロ以上の東西に延びる大きな自然壕。当時の島田叡(しまだあきら)知事ら県庁職員幹部や職員が避難し、この壕を最後に県庁・警察警備隊を解散したことから、県庁最後の地ともいわれている。この壕で米軍に保護された住民は、約600人とされている。
 米軍が壕を攻撃しても、壕内にいた日本兵は住民の脱出を許可しなかった。脱出を許さなかった日本兵は別の出入り口から抜け出して捕虜になっていたといわれ、日本兵による住民殺害の証言も残っている。(糸満市史など参照)

隣組(となりぐみ) 隣組は、第2次世界大戦下、国民を統制するためにつくられた地域組織。1940年に設置された。
 隣近所約10戸が一組となって、連帯責任体制の下、戦時下の生活を送る国民の物質的統制を、地方官庁や町内会などを通じて行うことを目的としていた。
 また、思想の統制や、住民同士の監視の役割もあったという。
 隣組の制度の下、戦時下の国民は、物資の提供や防空訓練などを行った。47年に、隣組は廃止された。

とんぼ(とんぼ) 日本陸海軍で運用した小型の練習用飛行機に対する愛称。沖縄戦で米軍が艦砲射撃時の連絡・弾着観測で使用した小型機に対する俗称でもある。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)