沖縄戦事典(や行)



八重山高等女学校(やえやまこうとうじょがっこう) 八重山の女子中等教育機関として、1942年に設立された。当初、各町村組合立として開校したが、43年に文部省認可となった。同年から飛行場建設作業などにかり出されるようになり、44年からは連日作業に追われた。
 4年生は45年2月5日?3月30日、看護術教育を受け、4月から准看護婦として石垣島の野戦病院、陸軍病院、海軍病院の3カ所に分散して配置された。3年生も5月に看護術を受け、各病院に配置された。約60人の生徒が戦争に動員され、1人が命を落とした。

予科練(よかれん) 海軍飛行予科練習生の略称。航空兵を養成するために基礎訓練をする制度の一つ。1930年代から訓練が始まったとされており、全国19カ所に訓練基地が設けられた。
 全国で延べ24万人が予科練に入隊。入隊時期によって応募資格や訓練内容が異なっており、入隊期によっては特攻隊として航空機に搭乗した者もおり、約90%が戦死した時期もあるなど戦死率が高かった。中には航空機搭乗員としてではなく、人間魚雷など航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

八重山地方の戦争(やえやまちほうのせんそう) 八重山地方など先島諸島(さきしましょとう)では本島地方とは違い、地上戦はなかったが、米軍による空襲や艦砲射撃(かんぽうしゃげき)などで命を落とす人は少なくなかった。
1945年の1月3日から3月末まで米軍による激しい空襲が何度もあり、石垣島などが主な標的となった。空襲は軍事施設だけでなく、鳩間島などの島々も対象となった。
 その後、日本軍は住民を山中などに強制避難させたが、避難先はマラリアがまん延していて、住民だけでなく、軍人もマラリアにかかった。空襲は7月ごろまで続き、8月には軍によって避難命令が解除されると、住民は避難先から徐々に戻り始めた。
 八重山諸島の住民の戦死者約3800人のうち、約3千人がマラリアなどの病気による犠牲だった。

八重山戦争マラリア(やえやませんそうまらりあ) 沖縄戦末期、八重山地区で日本軍の命令により、住民がマラリア有病地への移動を余儀なくされ、3千人余りの人が亡くなった。
マラリアはマラリア原虫を保有しているハマダラカという蚊に刺されて感染する病気。発熱や下痢などが起き、早く治療しなければ脳性マラリアとなって亡くなることもある。
 1945年6月、日本軍は先島への米軍上陸の可能性を理由に、住民に移動命令を出した。日本軍は事前にその地域がマラリア有病地であることを知っていたが、住民を強制移動させ、予防対策も講じず、治療薬も準備していなかった。
 戦時中の八重山は現地の部隊の指揮下に置かれ、住民の生活まで軍の統制下に置かれていたため、住民は命令に従うしかなかった。

与座岳(よざだけ) 日本軍の南部撤退に伴い、高嶺村(現糸満市)与座の与座岳(168メートル)にも部隊が配備された。
 1945年6月8日、米軍は歩兵部隊の進攻に先立ち、与座岳を標的に空襲や艦砲射撃など集中攻撃を行った。日本軍も激しく抵抗したが、16日夕、米軍により与座岳は制圧された。
 日本軍が、与座岳を含む丘陵の連なりを最後の防衛線として徹底応戦したため、多くの住民が巻き込まれた。また日本軍による壕の追い出しも起こり、人々は砲弾や銃弾が飛び交う中を逃げ惑った。
 「糸満市史」によると、沖縄戦による与座住民の戦没率は52.7%で、半数以上の人が犠牲になった。