沖縄戦事典(あ行)



アーニー・パイル(あーにー・ぱいる) (1900~1945)米国人ジャーナリスト。第2次世界大戦時に戦線を渡り歩き、1944年にはピュリツァー賞を受賞し、米国を代表する従軍記者として知られるようになった。45年に米軍の沖縄上陸に同行した。4月16日に伊江島に移り、取材中の18日、日本軍の銃弾を受け死亡した。戦後、現在の国際通りの「テンブス館」付近に、その名を冠した「アーニー・パイル国際劇場」が建てられた。「国際通り」はこの劇場名が由来となっている。

青空教室(あおぞらきょうしつ) 沖縄戦後、学校教育が再開されたときに、各地に設けられた収容地区で実施した授業のこと。戦後数年間は県内各地で見られた。
 羽地村(現名護市)田井等収容地区で開講された学校では、ガジュマルの木陰で約400人の子どもたちを集めて、童話を聞かせたり、唄歌を歌わせたりした。宜野座村惣慶の学校では男の子も女の子も一緒になって授業を受けたが、これが期せずして男女共学第一号と言われるようになった。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」、「沖縄県史各論編6 沖縄戦」)

阿嘉島(あかじま) 1945年3月26日、沖縄戦で最初に米軍が上陸した慶良間諸島の島。阿嘉島では米軍上陸前から山奥に逃げたことで、住民と日本軍の“食糧戦争"が起こっていた。食糧は全て軍に接収され、住民は米軍よりも日本軍を恐れるようになった。日本軍による住民虐殺や朝鮮人軍夫の処刑が起こった。(参考・「沖縄県史各論編6 沖縄戦」)

アガリン壕(あがりんごう) 現在の糸満市立米須(こめす)小学校の県道7号を挟んだ向かいあたりに位置する自然洞窟。現在は埋められている。「米須字史」によると、米須の住民158人が壕の中に避難していた。日本兵数十人が入ってきて、米軍の呼び掛けに抵抗したため、1945年6月下旬、壕内にガソリンを流し込まれ火をつけられ、壕内にいた全員が死亡したとの証言がある。米須小近くに慰霊碑がある。

粟国島(あぐにじま) 日本軍の部隊は配備されなかったが、1944年の10・10空襲で那覇が被害を受けたことで、那覇在住の粟国島被害者や南洋群島からの引き揚げ者が島に集まった。当時、島の人口は約4000人に膨れあがっていた。ところが那覇との交通が遮断されたため米が供給されず、食糧不足が深刻だった。45年6月9日に米軍が上陸し、艦砲射撃や機銃掃射が始まった。空襲で13人、米軍の上陸時に56人、上陸後に4人が死傷した。(参考・「沖縄県史各論編6 沖縄戦」)

アハシャガマ(あはしゃがま) 伊江村東江前にある避難壕。奥行きは約20メートル、広さ100平方メートル。沖縄戦時、約180人が身を潜め、すし詰め状態だったとされる。避難していた住民は、敵に捕まる前に死んだ方が良いと教え込まれていた。
 4月22日ごろ、壕の中で家族ごとに並び「捕虜になるぐらいなら」と人々は持ち込んだ爆雷を爆発させた。「集団自決」(強制集団死)により多くの人が亡くなった。生き残ったのはわずか20人ほどだった。

アブチラガマ(糸数壕)(あぶちらがま(いとかずごう)) 全長約270メートルの自然洞穴。1944年7月、第9師団が測量調査を実施。45年2月、独立混成第15連隊(美田部隊)が壕を整備し、小屋や電灯も設置した。4月末からは沖縄陸軍病院糸数分室として使用され、軍医3人、看護婦3人、衛生兵数人、ひめゆり学徒16人が治療や看護にあたった。壕内の電灯は撤去され、ろうそくや豚の油のランプが使われた。多いときには600~千人近い患者がいた。
 5月25日の撤退命令後、病院関係者は摩文仁村伊原(まぶにそんいはら)(現糸満市伊原(いとまんしいはら))へと移動したが、残された患者には自決用の青酸カリが配られた。8月22日、負傷兵数人と避難住民約200人は壕を出るが、一部の日本兵と住民は、9月中旬まで壕内に残っていた。(「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(1)-南部編?」参照)

慰安所(いあんじょ) 戦地や日本軍の駐屯地域に設けられ、女性たちに兵士との性行為を強制した施設。沖縄でも、第32軍が創設された1944年以降に慰安所の設置が本格的に始まり、離島を含む県内で約140カ所の慰安所が設置された。日本軍は慰安所のことを「軍慰安所」「軍人倶楽部」「後方施設」などと呼んでいた。
 日本軍が慰安所を設置した目的は、兵士による一般女性への性的暴行の予防、性病予防、兵士のストレス解消、機密保持などとされた。しかし実際には、沖縄の女性への性的暴行や性犯罪は多発した。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

慰安婦(いあんふ) 慰安所で働かされた女性のこと。朝鮮、中国、台湾から多くの女性が連行されたほか、日本が侵略したアジア各地の女性も「慰安婦」にされた。沖縄では辻遊郭の女性たち(ジュリ)も多数が「慰安婦」にされた。また少数ではあるが、日本本土出身の「慰安婦」もいた。
 彼女たちの中にはアメリカ軍上陸後も日本軍と行動を共にし、負傷兵の看護にあたるなどしていた者もいたが、戦場に投げ出されて命を失った者も少なくない。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

伊江島(いえじま) 本部半島の西方約5キロの洋上に浮かぶ孤島。耕地に適した平たんな地形が飛行場の適地とされ、日本軍の陸軍航空本部は1943年から飛行場建設に着手した。当時東洋一の飛行場だったことから、米軍は4月16日に上陸。多くの住民を巻き込んで激戦が繰り広げられ、わずか6日間で日本軍約3千人、島民1500人が犠牲になった。
 乳飲み子を背負った女性も斬り込みに行くなど、住民のほとんどが総攻撃に参加させられた。
 米軍に占領された伊江島は、本土への攻撃基地として使用されることになった。45年8月、長崎に原爆を投下したB29爆撃機が給油のため伊江島に立ち寄っている。住民は全員慶良間諸島へ移され、伊江島に戻ったのは47年5月のことである。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」など)

伊江島の飛行場建設(いえじまのひこうじょうけんせつ) 伊江島の飛行場建設は1943年から進められ、沖縄県内各地からたくさんの人たちが作業のために動員された。大人の男性はもちろんのこと、女性や子どもたちまで建設作業に従事させられた。つるはしやシャベルなどを使って人力に頼りながら建設を進めた。作業は1日平均11時間にも及んだと言われ、食料も十分ではなかった。1回当たりの作業期間は1~2週間で、何回も作業に呼ばれる人もいた。(参考・伊江島の戦中・戦後体験記録、沖縄県史10沖縄戦記録2、本部町史)

伊江島飛行場(いえじまひこうじょう) 沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島の北西に浮かぶ伊江島。平らな地形が航空基地に最適とされ、1943年から日本軍は飛行場の建設を進めた。県内各地から1日数千人が動員され、太平洋戦争末期には「東洋一」といわれる飛行場が建設された。
 米軍も日本本土攻撃に備え、伊江島の占領を計画し、「10・10空襲」を皮切りに、集中して攻撃した。日本軍は米軍に飛行場を使用されることを恐れ、完成間近の45年3月に飛行場を破壊した。
 住民は飛行場の建設作業に従事し、島外に疎開する機会を奪われ、戦闘に巻き込まれた。戦後には米軍の強制土地接収、基地被害に苦しんだ。このような伊江島の歴史は「沖縄戦の縮図」といわれている。

遺骨(いこつ)→戦没者の遺骨

遺骨収集(いこつしゅうしゅう) 現在も沖縄の地中には、本島南部を中心に沖縄戦戦没者の遺骨が数多く埋まっている。沖縄県は2020年度末時点で2822人の遺骨を未収骨と推計しているが、遺骨収集を続けているボランティア団体「ガマフヤー」の具志堅隆松(ぐしけんたかまつ)さんは「1万人以上あるのではないか」と話している。遺骨の収集や仮安置などを行う県平和祈念財団「戦没者遺骨収集情報センター」は20年度に59体を収集した。

石川収容所(いしかわしゅうようじょ) 1945年4月1日に、沖縄本島中部西海岸の読谷から北谷に上陸した米軍は、3日には東海岸の美里村(みさとそん)石川(現在のうるま市石川)に到達。当時の美里村石川は約2千人の小さな集落だったが、米軍が避難民収容地区に指定したことで県内各地から避難者が集まった。収容所には約2万3千の人たちがかやぶきの小屋やテントで生活を送った。マラリアの流行などもあり、戦争を生き延びても収容所で命を落とす人がたくさんいた。また、収容所では45年5月7日に石川学園(現在の城前小学校)が開設され、790人の子どもたちが勉強を始めた。

石部隊(いしぶたい) 沖縄本島に配備された主要部隊・第62師団(藤岡武雄中将)の通称。京都で編成され、1944年7月に中国から沖縄の第32軍に編入された。8月下旬から11月下旬ごろは浦添村(うらそえそん)から北谷村(ちゃたんそん)一帯に配備された。しかし、南部に配置されていた第9師団が台湾に移されて手薄になったため、44年12月に、北谷村から知念半島まで守備範囲が広がることになった。45年4月上旬から下旬にかけての嘉数高地(かかずこうち)の戦いの主力部隊で、標高90メートルの自然の要塞の地下に陣地壕を構築したが、多くの戦死者を出した。(参考・県平和祈念資料館編「沖縄の戦争遺跡」)

一中鉄血勤皇隊(いっちゅうてっけつきんのうたい) 兵士が不足した沖縄戦では、県内の中学校や沖縄師範学校、工業、農林、水産、商業学校の生徒らが学徒隊として戦場に動員された。1945年3月28日、現在の首里高校の前身・県立第一中学校の職員・生徒が、一中鉄血勤皇隊に動員された。  3~5年生およそ220人は陸軍二等兵として、2年生115人は通信兵として、戦場へ送られた。そのうち190人以上が死亡したとされる。勤皇隊に入らなかった生徒や、除隊させられた生徒、詳細が分かっていない生徒もおり、沖縄戦で亡くなった一中職員・生徒の総数は300人以上とされる。(参考・兼城一「沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上)」)
→鉄血勤皇隊

糸洲の壕(いとすのごう) 糸満市にある自然洞窟で、伊敷(いしき)集落側のウンジャーガマと糸洲(いとす)集落側のウッカーガマに入り口が分かれている。
 両ガマには3月下旬から周辺集落の住民らが避難していたが、日本軍によりガマを追い出された。しかし再びガマに戻る人も増え、軍民雑居の状態になった。
 5月下旬、豊見城から撤退してきた第24師団第二野戦病院が主にウンジャーガマ側に置かれた。6月の中旬になると米軍によって毎日ガス弾が撃ち込まれ、火炎放射器などで猛攻撃を受けた。
 積徳学徒隊25人は、沖縄の組織的戦闘終了後となる6月26日の解散命令までこのガマに避難していた。

伊良波収容所(いらはしゅうようじょ) 沖縄戦終盤に米軍が設置、主に本島南部の激戦地で捕らえられた人々が最初に送られた収容所。簡易な金網で囲まれ多数のテントが立ち並ぶ収容所には主に民間人が送り込まれた。取り調べを受けた後、傷の有無、性別、軍人か民間人か否かに選り分けられ収容された。検査や尋問、応急手当などを受けた後、数時間から数日という短い収容期間の後、民間人だと本島中部の野嵩(のだけ)・安谷屋(あだにや)・越来(ごえく)などの各収容所へ、軍人の場合は金武の屋嘉(やか)収容所などへと再び移送された。

慰霊の日(いれいのひ) 沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日を記念し、世界の平和を祈り、戦没者慰霊のために制定された沖縄県独自の祭日。県内の公的機関(国を除く)や学校などは休日となっている。糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が行われる。1977年からは知事が「平和宣言」を読み上げている。
 慰霊の日は、1961年に米軍統治下の琉球政府が定めた。沖縄の日本復帰後、県条例でも定められ、県民の休日として広く浸透した。
 制定当初は6月22日だったが、1965年に23日に変更された。当時、沖縄防衛第32軍司令官の牛島満中将が自決したとされるのが、6月22日とされていたが、大本営資料や沖縄戦時の高級参謀だった八原博通氏の聞き取りにより23日説が出たためだった。その後、複数の捕虜の証言や「自決は22日午前3時40分」とする米軍資料なども見つかり、現在は22日説が有力とされる。(参照:https://ryukyushimpo.jp/news/entry-744196.html)

慰霊碑(いれいひ) 戦没者を悼み平和を希求するために建立された石碑。

イングェーガマ(いんぐぇーがま) 読谷村波平(よみたんそんなみひら)にある自然洞窟。小字名「犬桑江原(イングェーバル)」が名前の由来。ガマに入ると、高さ2.5メートル、幅20メートル、奥行き10メートルほどの広さがある。奥に進むほど天井が低くなっており、4月2日に「集団自決」(強制集団死)が起きたチビチリガマからは、100メートルも離れていない場所にある。ガマのある場所は現在、フェンスで囲われ、読谷村が管理している。

インヌミ収容所(いんぬみしゅうようじょ) 第2次世界大戦後、県外・海外からの引き揚げ者のために米軍によって設置された美里村(みさとそん)(現沖縄市)高原(たかはら)一帯の収容所を指す。引き揚げ者は中城村久場(なかぐすくそんくば)に上陸すると消毒のために殺虫剤のDDTをかけられた後、インヌミ収容所に送られ、そこから各自の出身地へと帰還した。戦後引き揚げ者約20万人の大半が利用したとされる。
 インヌミ収容所は米軍のキャンプ跡を利用した天幕小屋で、多い時には2千~3千人が生活していた。1945年10月ごろから49年7月ごろまで置かれた。(琉球新報社『沖縄コンパクト辞典』など参照)

牛島満(うしじま・みつる)(1887~1945)陸軍中将。沖縄防衛第32軍指揮官。1944年8月に沖縄に赴任。首里城下に第32軍司令部壕を構築し、米軍迎撃の指揮を執った。5月22日に司令部を放棄し、南部への撤退を決定。住民と日本軍、米軍が混在する状況が生まれた。「軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である」と語ったとされ、持久戦を続けることを貫いた。45年6月22日(23日説も)、長勇・参謀長とともに糸満市摩文仁の司令部壕で自決。日本軍の組織的戦闘が終わった。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」、八原博通「『沖縄決戦』高級参謀の手記」など)

宇土部隊(うどぶたい) 戦況に応じて攻撃する遊撃戦を実施するために1944年11月、本島北部に配備された日本軍部隊の一つ。国頭支隊(くにがみしたい)とも言う。支隊長の宇土武彦(うどたけひこ)大佐の名字を取って、宇土部隊と呼ばれていた。宇土部隊の兵士が住民から食料を奪うなどの横暴な事件も報告されていいる。

馬乗り攻撃(うまのりこうげき) 米軍の「馬乗り攻撃」は壕の入り口で火炎放射器を使ったり、壕の上から削岩機で穴を開けて爆弾やガス弾を投下したりする攻撃法。火炎放射器は液体燃料を圧縮空気で放出し、それに火をつけて攻撃する兵器。
 米軍は飛行機による空襲や軍艦からの艦砲射撃など、圧倒的な戦力で日本軍を追い詰めた。さらに、投降せずに壕に立てこもる日本兵や住民らを殺りくしようと、県内各地で馬乗り攻撃を行い、多くの犠牲者を出した。

浦添における軍民混在(うらそえにおけるぐんみんこんざい) 浦添村には1944年8月頃から日本軍の第62師団が駐屯するようになった。各学校は兵舎となり、民家を利用して授業が行われる所もあった。急増する兵隊を収容できない地域では、民家も兵舎として利用された。兵隊の食事は炊事場で作られ、みそ汁や玄米ご飯などを兵隊が当番制で兵舎まで運んでいた。
 日本軍は各部隊に慰安所を設置した。浦添村の18字のうち、小湾(こわん)、屋富祖(やふそ)、安波茶(あはちゃ)、仲間(なかま)、西原(にしはら)、経塚(きょうづか)、沢岻(たくし)に計14カ所が設置され、民家などが利用された。(参考「浦添市史」戦争体験記録)

運玉森(うんたまむい) 与那原町と西原町の境界に位置する山で、標高158メートル。米軍に「コニカル・ヒル」(円すい形の丘という意味)と呼ばれた激戦地となった。米軍は5月13日、運玉森の攻撃を開始。日本軍の陣地や布陣する部隊の壊滅を狙って、中城湾(なかぐすくわん)から徹底的に艦砲射撃をした。この攻撃によって与那原(よなばる)は焼き尽くされた。打ち込んだ爆弾の値段が百万ドルに相当するという意味から、米軍は運玉森を「百万ドルの山」と呼んだと言う。(与那原町教育委員会発行の「与那原の沖縄戦」参考)

MP(Military Police)(えむぴー) アメリカ軍の警察組織で、日本軍の憲兵に相当する。軍隊内の秩序の維持や収容所の管理などを行ったが、必ずしも沖縄県民の見方であったわけではなかった。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

大浦崎収容所(おおうらざきしゅうようじょ) 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのある区域に1945年6月下旬、今帰仁村(なきじんそん)、本部町(もとぶちょう)、伊江村(いえそん)から移動させた人たちを収容する大浦崎収容所が設置された。同年8月には約4万人が収容され、過酷な生活を強いられた。マラリアなどの疫病もまん延して、一日に数人が亡くなり、埋葬されたという証言がある。
 1957年にシュワブが建設され、現在でも収容所で亡くなった人たちの遺骨収集がされないまま残っている可能性があると指摘されている。(参考・「5000年の記憶」編集委員会『5000年の記憶 名護市民の歴史と文化』、辺野古区編さん委員会『辺野古誌』)

大宜味村民の避難生活(おおぎみそんみんのひなんせいかつ) 大宜味村民が山奥での避難生活を始めたのは米軍が本島に上陸した1945年4月ごろからだった。当初、村民は集落に近い山中に避難していたが、米軍の艦砲射撃や空襲が激しく、さらに山の奥深くまで逃げ込んだ。
 村民は山奥の川沿いに避難小屋を建てたが、不衛生なためシラミが発生し、マラリアなどの病気にかかる人もいたという。
 村民は空襲などがやむ夜間、集落に食料を取りに行っていたが、日本兵と間違われて米兵に殺されることもあった。渡野喜屋(とのきや=現在の白浜)では45年5月、日本軍が住民にスパイの疑いをかけ、殺害した(渡野喜屋事件)。

大里村(おおざとそん) 1908年4月、大里村(現在の南城市大里など)は誕生した。第2次世界大戦勃発で、44年5月ごろから沖縄本島への攻撃が激化。同村も45年2月ごろから、金武村に村民千人を疎開させた。働ける男子は食料の供出や壕掘り、弾運びなどで全員召集された。4月の米軍北谷上陸で、大里城と第二大里国民学校一帯に日本軍が駐屯したため、村民は南部の具志頭(ぐしちゃん)や高嶺(たかみね)、知念村(ちねんそん)などへ南下した。しかし、米軍の激しい攻撃に多くの村民が死亡した。当時戦没した村民は、同村の人口1万5千人の約1割に当たる1700人だったといわれている。(大里村史参照)

大里村与那原の沖縄戦(おおざとそんよなばるのおきなわせん) 大里村与那原(現在の与那原町)は、司令部があった那覇市首里の東に位置しており、米軍の激しい攻撃が加えられた。与那原の運玉森(うんたまむい)は首里に至る道の延長線上にあり、約千人の日本兵が駐屯していたという。1945年5月13日以降、米軍は運玉森に総攻撃をかけ、中城湾にいた米海軍からも猛烈な艦砲射撃が浴びせられた。激しい戦闘の末に、5月21日、運玉森は米軍に占領されてしまう。戦闘で米軍は1100個を超える手投げ弾を使ったことから、米兵たちは運玉森を「100万ドルの山」と名付けたとされている。

大田昌秀(おおた・まさひで) (1925~2017)元沖縄県知事・参院議員。久米島町出身。1945年、沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員された。戦後は、早稲田大学を卒業後、米国に留学し、後に金門クラブの会員にもなった。68年に琉球大教授(メディア社会学)。90年に革新統一候補として県知事選に出馬し、現職の西銘順治氏を破り当選。98年まで2期務めた。3期目を目指したが、保守系候補の稲嶺惠一氏に破れた。2001年の参院選に社民党から出馬、当選(比例代表)し、1期務めた。
 任期中には平和の礎や県公文書館を建設し、県平和祈念資料館の移転、改築にも着手した。さらに、2015年までに米軍基地を段階的に全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。
 基地問題を巡っては、歴代知事では最多の計7回訪米し、基地の整理縮小などを直接訴えた。95年には、米兵による少女乱暴事件が発生。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に代わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。
 研究者としては、沖縄戦や高等弁務官の調査研究に力を注ぎ、住民視点から沖縄戦とその後の米統治下時代の実相を広く世に伝えた。

大田實(実)(おおた・みのる)  (1891~1945)沖縄戦の海軍沖縄方面根拠地隊司令官。海軍中将。1945年1月赴任、4月の米軍の沖縄本島上陸とともに、陸海軍の現地協定で陸軍第32軍の指揮下で戦闘に参加することになった。海軍司令部壕(豊見城市豊見城)で指揮を執ったが、6月4日、小禄飛行場の北部に上陸した米軍に包囲され、撤退不可能な状況に追い込まれた。6月6日、多田武雄海軍次官に「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」と国の配慮を求めた電報を送った。隊は11日に組織的戦闘を終了。大田中将は13日夜半、拳銃自決した。
 「斯く戦へり」の電報は、島田叡知事に代わって報告する形で、「県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ僅(わずか)に身を以て軍の作戦に支障なき場所の小防空壕に避難」と、戦場に残された県民の姿を伝えている。(元の電文は漢字と片仮名表記)

沖縄愛楽園(おきなわあいらくえん) 現在の名護市北部にある屋我地島(やがじしま)に建てられたハンセン病療養所。1938年2月28日、国頭(くにがみ)愛楽園として開園した。44年の「10・10空襲」の際に初めて米軍機の爆撃を受けた。「沖縄県史」によると同園には療養所であることを示す標識がなく、朝8時過ぎから7時間余も空襲が続いた。園内の建物72棟のうち治療室や寮舎など26棟が全壊、焼失した。「10・10空襲」以降、同園は米軍から繰り返し攻撃を受けた。米軍は45年4月21日、屋我地島に進攻し、同園が療養所であることを確認すると攻撃をやめた。

沖縄慰霊の日(おきなわいれいのひ)→慰霊の日

沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい) 戦後沖縄の最初の中央政治機関。1945(昭和20)年8月25日、米軍政府の諮問機関として設置。日本が敗戦を迎えた8月15日には、住民代表者会議が開かれ、設置が決まり、20日に石川市で始動。委員長には元開南中学校長の志喜屋孝信氏(後の沖縄民政府知事、琉球大学初代学長)が選ばれた。9月には本島の各収容所(12市)で、市長と市会議員選挙を実施。日本本土に先んじて、満25歳以上の女性に選挙権、被選挙権が与えられた。
 諮詢会は、配給機構の整備、教科書の編集作業、戸籍法の整備、住民の旧居住地への移動、警察学校、文教学校などの設立、財政計画など、戦後行政の基本的な事業を集中的にこなし、46年4月の沖縄民政府設立に伴い、解消された。

沖縄師範学校(おきなわしはんがっこう) 1880年に設立された会話伝習所が起源。1943年に名称が沖縄師範学校となり、女子師範学校を併合し、男子部と女子部を置いた。男子部は旧首里市にあり、女子部は旧真和志村安里にあった県立第一高等女学校と同じ場所にあった。学校の目的は教員養成だったが「皇国の道に則して国民学校教員たるべき者を錬成す」に変わっていった。
 沖縄戦では男子が鉄血勤皇隊、女子はひめゆり学徒隊として戦場に動員され、多くが犠牲になった。米軍の攻撃を受けて校舎を失い、戦後は学校が再開されることはなかった。

沖縄師範学校女子部(おきなわしはんがっこうじょしぶ) 那覇市安里(なはしあさと)にあった教員を養成するための学校。米軍の沖縄上陸の可能性が高まった1944年5月ごろから、授業に代わり陣地構築や労役作業に駆り出される日々が続いた。同じころ、日本軍と学校当局は、学生の戦場動員の打ち合わせを始めた。そして、師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒によって学徒隊(戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる)が編成され、45年3月23日夜、南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に向かった。学徒隊は、負傷した兵隊の看護、炊事、亡くなった兵隊の遺体埋葬などをしていた。師範学校女子部からは157人、県立第一高等女学校から65人の計222人が動員された。(参考・ひめゆり平和祈念資料館 資料集3「ひめゆり学徒隊」)

沖縄師範学校男子部(おきなわしはんがっこうだんしぶ) 沖縄師範学校男子部は首里城正殿の後方、現在の県立芸術大学の場所にあった。1945年1月初旬ごろから生徒は第32軍の野戦築城隊に動員され、首里城の地下に築かれた第32軍司令部壕の構築に昼夜を問わず従事した。また、首里城正殿の後方に師範学校自身の陣地壕「留魂壕(りゅうこんごう)」を構築した。留魂壕の構築には3カ月の日数を要した。
 3月31日、師範学校の職員、生徒全員が鉄血勤皇師範隊として第32軍に編入され、千早隊、野戦築城隊、斬込隊に分かれて配置された。戦場に動員された生徒は386人、教師24人で、そのうち生徒226人、教師9人が戦死した。(大田昌秀著「沖縄鉄血勤皇隊」参照)

沖縄新報(おきなわしんぽう) 戦時体制下、言論体制が強化され国が一県一紙制度を進めた。1940年12月、沖縄県ではそれまで発行されていた『沖縄日報』『沖縄朝日新聞』『琉球新報』の3紙が統合されて『沖縄新報』が誕生した。軍部の意向に沿い、戦意高揚をあおる記事を載せ、県民を戦場に駆り立てた。米軍が沖縄本島に上陸した45年4月、首里城正殿背後の「留魂(りゅうこん)壕」で新聞を制作した。壕内には印刷機と活字が持ち込まれ、戦時下で新聞の発行を続けた。首里城の陥落とともに5月25日に新聞発行を終えた。

沖縄戦(おきなわせん) 1945年3月26日の米軍の慶良間諸島上陸から90日間続いた日米両軍の激しい地上戦。米軍による無差別攻撃のほか、日本兵が住民をスパイの疑いをかけて殺したり、壕(ごう)を追い出して食料を奪うことがあった。米軍の恐ろしさを教え込まれ、日本軍に捕虜になることを禁じられた人が自分の命を絶つ「集団自決(しゅうだんじけつ)」(強制集団死)も起きた。
 沖縄戦で亡くなった人は20万人あまりにのぼり、日本兵6万6千人、アメリカ兵1万2500人が戦死した。それに対し沖縄の住民は9万4千人が亡くなり、日本兵の犠牲を上回った。また沖縄出身の軍人、軍属も2万2千人亡くなった。逃げ場のない島で、一般住民が戦場の中に巻き込まれ「戦場死」したことは、沖縄の戦後史にさまざまな影響を与えている。
 6月22日(23日説も)、沖縄防衛第32軍指揮官の牛島満中将が沖縄本島南端の糸満市摩文仁で自決し、組織的戦闘は終わったとされる(→沖縄慰霊の日)。米軍は7月2日には沖縄作戦の終了を宣言したが、局地的な戦闘は続いた。南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは9月7日。玉音放送による日本の終戦(8月15日)と降伏文書の署名(9月2日)より後だった。その後も米兵や日本軍の敗残兵による戦闘は続き、住民も犠牲になった。
 沖縄戦の結果、米国による占領統治が1972年まで続くことになった。「あめりか世(あめりかゆー)」とも言われる。民有地を強制的に接収しての米軍基地建設が進められるなど、住民の主権は大幅に制限された。

沖縄戦末期の南部(おきなわせんまっきのなんぶ) 5月下旬、首里を放棄した日本軍が移動したのは住民が避難していた沖縄本島南部だった。そこに日本軍を追って米軍が攻め込み、激しい戦闘が始まった。戦闘地域と住民の避難地域の区別がなくなり、混乱状態となった。この中で日本兵は戦争を続けるため、壕に隠れていた住民を追い出したり、食料を奪ったりした。6月17日に沖縄の米軍最高責任者のバックナー中将が戦死したことがきっかけとなり、米軍は、住民も無差別に殺していった。6月になり住民の犠牲者は増大し、この月だけで4万7千人もの人が亡くなった。

沖縄文教学校(おきなわぶんきょうがっこう) 1946年1月、戦後の教員不足の解消と人材育成をめざし、具志川市田場に開設された教員養成機関。師範・外語部・農林部でスタートしたが、まもなく外語・農林部はそれぞれ独立。50年5月、琉球大学開校にともない廃止された。

沖縄陸軍病院(おきなわりくぐんびょういん) 南風原村(はえばるそん)(現南風原町)にあった第32軍直轄の病院で、患者を収容する多くの壕があった。戦闘が激化すると、一日橋(いちにちばし)、糸数(いとかず)、識名(しきな)に分室が置かれた。那覇市安里(なはしあさと)の沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人で構成されたひめゆり学徒隊は、まずこの病院に向かい、その後、それぞれ、壕や分室などに配属された。砲撃の少ない夜間、壕の中で手術が行われ、切断した手足の処理、器具の消毒なども学徒が担った。(「ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック」より)

恩納村の沖縄戦(おんなそんのおきなわせん) 戦時中、恩納村(おんなそん)にも日本軍の一個連隊が駐屯していた。日本軍と村民は一体となって陣地や防空壕の構築のために働いた。10・10空襲の後は、那覇からの避難民の受け入れ準備の作業にも追われた。米軍の空襲が始まり、日本軍の足手まといにならないよう、住民は防空壕に避難したが、壕の中の生活は狭くて、身動きができなく、空襲や機関銃掃射、艦砲射撃が続き恐怖の毎日だった。米軍は、1945年4月3日に上陸用舟艇で恩納村に上陸し、民家や公的施設を次々と破壊した。住民は、避難壕や洞窟に避難し、米兵の姿が見えない夜に危険を冒して食料を探しに行った。

恩納岳(おんなだけ) 恩納村(おんなそん)と金武村(きんそん)(現・金武町)の集落に囲まれた恩納岳。沖縄戦当時、第2護郷隊と米兵による激しい戦闘の舞台となった。米軍の追撃がかなわなかった日本兵や、中南部からの避難民なども恩納岳に集まった。第2護郷隊は、第1中隊が恩納岳の南西、第2中隊が恩納岳北西の安富祖(あふそ)方面、第3中隊が恩納岳の北東にある三角山に配置された。
 米軍は陣取っていた三角山の麓や、恩納岳南西から進撃。金武村方面から山に向かって迫撃砲を撃ち込んだ。1945年4月1日から6月2日までの約2カ月間の戦闘で、多くの命が失われた。恩納岳の麓、安富祖区のクガチャ原高台にある「第二護郷隊之碑」には、慰霊の日になると区民らが追悼のために足を運ぶ。