中飛行場(なかひこうじょう) 現在の米軍嘉手納基地で、1944年9月に日本陸軍の中飛行場として建設された。翌45年4月、上陸した米軍が占領した。米軍は整備・拡張を進めて同年6月までに大型爆撃機が離着陸できる2250メートルの滑走路を完成させた。部分的に通行が可能だったが、48年4月ごろ、米軍が管理を強化して全面通行できなくなった。50年の朝鮮戦争勃発で米軍は同基地を「極東最大の空軍基地」として重要視するようになった。67年には3250メートルの滑走路2本を完成させた。
ベトナム戦争の発進拠点となった。その建設の過程で土地を接収され、今も戻れない人たちがいる。(参考・県知事公室基地対策課「沖縄の米軍基地」、嘉手納町ウェブサイト)
ベトナム戦争の発進拠点となった。その建設の過程で土地を接収され、今も戻れない人たちがいる。(参考・県知事公室基地対策課「沖縄の米軍基地」、嘉手納町ウェブサイト)
南静園(なんせいえん) 宮古島市にあるハンセン病患者の療養所。県立宮古保養院として1931年に開所。1944年8~9月にかけ、宮古島に3万人規模の日本軍が配備された。軍はハンセン病患者が戦場にいると作戦に支障が出るとして、宮古郡全域の患者を強制収容した。その数は400人ともいわれている。連合軍は宮古島に上陸することはなかったが、米軍機による空襲や英戦艦(えいせんかん)による艦砲射撃があった。
南静園は45年3~4月の空襲で壊滅し、職員は園を離れた。患者は散り散りとなり、近くの島尻山などに避難したが、食糧不足による餓死やマラリアによって犠牲者が相次いだ。(沖縄県ハンセン病証言集 宮古南静園編参照)
南静園は45年3~4月の空襲で壊滅し、職員は園を離れた。患者は散り散りとなり、近くの島尻山などに避難したが、食糧不足による餓死やマラリアによって犠牲者が相次いだ。(沖縄県ハンセン病証言集 宮古南静園編参照)
南部戦線(なんぶせんせん) 沖縄戦で旧日本軍は、1945年5月下旬に首里城の地下にあった司令部壕を放棄して、約3万人の日本兵が本島南部へ撤退した。現在の八重瀬町と糸満市が南部戦線に当たり、5月下旬から、牛島満司令官らが自決した6月22日(23日説も)まで日本軍による組織的な戦闘が続いた。
南部戦線には約10万人の住民が避難していた。軍隊と住民が混在した地域で戦闘が行われたため多くの悲劇が起きた。住民は米軍の激しい攻撃にさらされ、多数が命を落とした。日本兵が住民をスパイ扱いして殺害したり、避難している壕から追い出したほか、食料を奪い、壕で泣く子を殺害したという証言がある。
南部戦線には約10万人の住民が避難していた。軍隊と住民が混在した地域で戦闘が行われたため多くの悲劇が起きた。住民は米軍の激しい攻撃にさらされ、多数が命を落とした。日本兵が住民をスパイ扱いして殺害したり、避難している壕から追い出したほか、食料を奪い、壕で泣く子を殺害したという証言がある。
南部撤退(なんぶてったい) 米軍上陸から2カ月の1945年5月22日、第32軍司令部のある首里に米軍が迫る中、32軍司令部幹部は首里にとどまり、壊滅するまで米軍と戦うか、南部に退き戦闘を継続するか作戦を協議し、牛島満(うしじまみつる)司令官は本土防衛(ほんどぼうえい)の時間稼ぎのため、戦闘継続と南部への撤退を決めた。
首里以南の地域には10万人以上の住民が避難しており、南部撤退で軍民混在(ぐんみんこんざい)の状況が生まれた。日本軍は壕などを強制的に収用し、住民は砲弾の中に追い出された。5月末以降、軍人よりも住民の犠牲者が急増した。南部撤退がなければ民間人の死者ははるかに少なかったといわれている。
首里以南の地域には10万人以上の住民が避難しており、南部撤退で軍民混在(ぐんみんこんざい)の状況が生まれた。日本軍は壕などを強制的に収用し、住民は砲弾の中に追い出された。5月末以降、軍人よりも住民の犠牲者が急増した。南部撤退がなければ民間人の死者ははるかに少なかったといわれている。
難民収容所(なんみんしゅうようじょ) 沖縄市泡瀬(あわせ)の収容所に収容された住民は空襲で焼け残った家で数世帯が共同生活をしていた。3、4週間ほど過ごした後、現在のうるま市具志川(ぐしかわ)や高江洲(たかえす)などに移動させられ、本格的な収容所生活を送る人もいた。収容所では、成人は米軍の雑務や家屋造りなどの仕事をしていた。
食糧は米軍の余剰物資でまかなわれていた。米軍の物資は大量に野積みされており、「戦果」を挙げる(物資を盗む)ため国頭から収容所に来る人もいたという。行動の自由は許されず、外部との接触もできない状態だった。(参考『泡瀬誌』)
食糧は米軍の余剰物資でまかなわれていた。米軍の物資は大量に野積みされており、「戦果」を挙げる(物資を盗む)ため国頭から収容所に来る人もいたという。行動の自由は許されず、外部との接触もできない状態だった。(参考『泡瀬誌』)
南洋群島(なんようぐんとう) 西太平洋にあるマリアナ、カロリン、マーシャルなど、第1次世界大戦後に日本の委任統治領となった諸島の総称。パラオには日本軍の連合艦隊の基地があり、1937年にパラオに住んでいた日本人は1万1391人。このうち沖縄県の出身者は4799人で4割余を占めていた。1944年6月11日、米軍は日本の信託統治にあったサイパン、テニアン、ロタへの本格的な空襲を始めた。米艦隊がサイパン島を包囲し、島全体を攻撃。15日には上陸し、本格的な戦闘が始まった。昼夜問わず行われた攻撃の中を逃げ惑った住民の間では、家族や仲間同士による殺し合いも発生した。在留邦人約2万人のうち、戦争の犠牲になったのは8千人から1万人。県出身者の犠牲は約6千人とみられている。(「沖縄県史」各論編7・移民、読谷村史「戦時記録」上巻参考)
二中(にちゅう) 現那覇高校。→県立二中の学徒隊
ニミッツ布告(にみっつふこく) 沖縄侵攻軍の総司令官であった米太平洋艦隊司令長官兼米太平洋地区司令官ニミッツ元帥が出した米国海軍軍政府布告第1号「権限の停止」。日本の施政権停止を宣言した。1945年3月26日、座間味島に上陸した米軍がニミッツ布告を公布し、日本の統治権の停止を軍政の施行を宣言した。沖縄本島上陸時にもニミッツ布告を出した。米軍による沖縄の占領統治の基本法令。
根こそぎ動員(ねこそぎどういん) 沖縄に軍隊が配備された1944年の夏以降、日本軍は沖縄の人々を炊事や救護、陣地構築や物資の運搬などのさまざまな作業に動員した。
45年2月以降から沖縄戦中にかけては、足りない兵員を補うために動員はより大規模なものになり、動ける者は男女問わずかり出された。
その中には10代の若者や60代前後の人々も含まれていた。沖縄戦前夜から戦中までのこうした大々的な動員は、「根こそぎ動員」と表現される。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)
45年2月以降から沖縄戦中にかけては、足りない兵員を補うために動員はより大規模なものになり、動ける者は男女問わずかり出された。
その中には10代の若者や60代前後の人々も含まれていた。沖縄戦前夜から戦中までのこうした大々的な動員は、「根こそぎ動員」と表現される。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)
農兵隊(のうへいたい) 戦前、徴集・召集や勤労動員などによる農村の労働力不足の打開策として、沖縄県は数次にわたって18歳から25歳前後の青年らを募集し、食糧増産のための開墾作業に携わらせた(食糧増産隊)。そのうち44年11月に編成された組織は農兵隊と呼ばれ、国民学校高等科卒予定者(15歳前後の少年たち)も対象になり、青年学校生らと共に動員された。
農兵隊の隊長だった池間利秀さん(戦後、琉球政府職員)の最後の報告によると、45年2月、農兵隊は総勢641人が名護町東江原(現名護市)を本拠地として「決死生産隊」として出勤し、各地で開墾や植付を行った。のちにはアメリカ軍の空襲や艦砲射撃の中、小隊ごとの解散や隊員の脱走もあり、自然解散の城隊だったという。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)
農兵隊の隊長だった池間利秀さん(戦後、琉球政府職員)の最後の報告によると、45年2月、農兵隊は総勢641人が名護町東江原(現名護市)を本拠地として「決死生産隊」として出勤し、各地で開墾や植付を行った。のちにはアメリカ軍の空襲や艦砲射撃の中、小隊ごとの解散や隊員の脱走もあり、自然解散の城隊だったという。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)
野嵩収容所(のだけしゅうようじょ) 1945年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、2~3日後には現在の宜野湾市野嵩(ぎのわんしのだけ)に野嵩収容所を設置した。戦災を免れた民家や家畜小屋などが難民収容施設として使われ、ピーク時には約1万人を収容したとされる。宜野湾の住民のほか、南部で保護され、ここに運ばれてその後中部や北部の収容所へ移される住民もいた。(宜野湾市教育委員会発行「ぎのわん市の戦跡」など参照)