沖縄戦事典(さ行)



サイパン移民(さいぱんいみん) 1914年にサイパンが日本の支配下に入ると、日本は国策会社「南洋興発」を設立して、製糖業に力を入れ始めた。昭和初期の不況時には、仕事を求めた人々の移民が日本各地から急増し、米軍上陸前には約2万人の日本の民間人が住んでいた。
 米軍上陸前、サイパンにいた日本人の多くはサトウキビ作に携わっていたが、日米両軍の戦闘に巻き込まれ1万人前後の人々が犠牲となったと言われている。犠牲者のうち、約6割が沖縄県出身者だった。(平塚柾緒「玉砕の島々」など参考)

サイパン島(さいぱんとう) 1944年6月11日から14日までサイパンは米軍の大空襲を受けた。15日早朝、6万人を超える米兵が上陸し、本格的な戦闘が始まった。日本軍は島中央のタッポーチョ山に防衛線を設置。多くの犠牲者が出たこの山の一帯は、後に「死の谷」と呼ばれるようになった。
 最北端のマッピ岬では、追い詰められた住民らが「天皇陛下万歳」と言って崖から飛び降り、命を絶った。在留邦人約2万人のうち、8千~1万人が犠牲になり、そのうち約6千人が県人の犠牲とみられている。(『玉砕の島々と沖縄戦、終戦への道』/保阪正康監修、近現代史編さん会編など参照)

32軍(さんじゅうにぐん) 沖縄戦を戦った大本営直轄の軍隊。日本陸軍が南西諸島防衛強化のため、1944年3月22日に創設した。44年7月には4個師団、5個旅団を要する強力な守備隊になったが、沖縄戦突入直前、台湾軍(第10方面軍)の配下に入り第9師団が台湾に転出、その後兵力の補強のないまま沖縄戦に入った。
 当初は現在の南風原町津嘉山に司令部壕を構築していたが、44年12月から首里城下に新たな司令部壕(32軍壕)の構築を始めた。米軍上陸後の45年5月5日、32軍は浦添、西原で総攻撃に失敗、18日には最後の外郭陣地となるシュガーローフ(現在の那覇市おもろまち・安里)も陥落し、事実上敗北したが、戦闘をやめなかった。5月27日には司令部のある首里を放棄し住民の避難する南部に撤退。6月22日(23日の説もある)、牛島満(うしじま・みつる)司令官と長勇(ちょう・いさむ)参謀長が摩文仁(まぶに)で自決した。

潮平権現壕(しおひらごんげんごう) 旧兼城村(かねぐすくそん)(現糸満市)潮平(しおひら)区民が沖縄戦時に避難した自然壕。日本兵の命令により住民は壕を追い出されたが、再び壕に戻り6月中旬まで避難を続けた。壕にいた住民のほとんどが投降し、米軍に収容された。沖縄戦における潮平の戦没率は糸満市で最も低い24.3%。
 潮平一帯が日本軍の防衛戦になっていなかったことや、住民が避難できる大きな壕があったことがその要因と考えられている。今でも住民が投降した旧暦5月5日には「権現祭(ごんげんさい)」が開かれ、多くの命を救った壕として感謝されている。(「糸満市史 戦時資料 下巻」参照)

輜重兵(しちょうへい) 後方支援部隊のこと。水や食料、武器弾薬、資材などの物資を戦闘地帯の前線部隊に輸送し、戦力を維持することが主な任務だった。太平洋戦争当時、物資を輸送するためのトラックが既にあったが、山やジャングルなど道路が整備されていない地域が多く、馬車や人力で物資を運んでいた。
 戦争では軍隊の補給路を断つ作戦がとられることがあるため、敵軍に輸送中を狙われることもあった。補給路が断たれた南洋では、イモなどの農作物を栽培するなど物資を現地調達することもあった。

島田叡(しまだ・あきら) (1901~1945)沖縄戦当時の県知事。大阪府内政部長だった島田は1945年1月、官選知事として赴任した。老幼婦女子の緊急疎開と県民の食糧確保の問題に取り組んだ。
 4月の沖縄本島への米軍上陸に伴い、→第32軍の首里からの撤退直前に南部へ移動した。6月初旬、戦時最後の県庁所在地となる真壁村伊敷の「轟の壕」で県庁と警察警備隊を解散した。
 6月16日、「牛島満司令官と最後の行動を取りたい」と、摩文仁の司令部壕へ向かうが、牛島司令官に滞留を許されず、近くの軍医部壕に入る。牛島司令官らの自決後の26日、荒井退造警察部長と共に壕を出たのを最後に、消息を絶った。
 生命の危険もある中で沖縄に赴任した島田知事は、住民保護と食糧確保に力を入れたことから、戦後になって「島守」と語り継がれた。一方、県民の戦意を高め「軍官民の一体化」を推し進める役割も担った。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」、島田叡氏事跡顕彰会「沖縄の島守 島田叡」、田村洋三「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」など)

シムクガマ(しむくがま) 読谷村(よみたんそん)波平にあるシムクガマは総延長約2500メートルと、村内のガマでは最大級の大きさだった。戦時中には約千人の住民が米軍の空襲や艦砲射撃を逃れるために避難していたといわれている。米軍上陸の1945(昭和20)年4月1日、シムクガマにも戦車と銃を携行した米兵がやってきた。住民は混乱状態に陥り、ガマの奥に逃げ込もうとした人や「自決」を図ろうとした人もいた。しかし、ハワイ帰りの比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)の2人が「米兵は殺さないと言っている」と説得したため、住民は投降し、約1000名の住民が保護された。現在、ガマの入り口には2人の行動に感謝の意を込めた石碑がある。

10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう) 1944年10月10日、米軍が、沖縄本島を中心に奄美大島以南の南西諸島の主要な島々を攻撃した初の本格的な空襲。那覇市は家屋の9割が全焼・全壊し壊滅的被害を受けた。
 実施したのは、海軍第3艦隊所属の第38高速空母機動部隊(マーク・A・ミッチャー司令官)。 攻撃は5回にわたり、第1次では北(読谷)などの飛行場が、2次では船舶や飛行場が、3次では那覇・渡久地(とぐち)・名護・運天・与那原・泡瀬などの各港湾施設が狙われた。午後に始まった第4、5次では那覇市が集中的に攻撃された。
 全体で民間人や軍人・軍属合わせて668人が亡くなった。学校や病院など民間施設も被害に遭っており、事実上の無差別攻撃だった。

集団自決(強制集団死)(しゅうだんじけつ(きょうせいしゅうだんし)) 米軍が上陸した慶良間(けらま)の島々や沖縄本島では住民の「集団自決」(強制集団死)が起きた。手りゅう弾や鎌などで、親子や兄弟、夫婦らが殺し合い、住民が命を落とした。
 米軍上陸前から日本軍が駐留した島々では、陣地構築や食料の供出、兵舎の提供などで日本軍は住民たちに協力を要求していた。住民生活や行政も日本軍の影響下に入っていた。
 座間味や渡嘉敷の「集団自決」で日本軍から住民に対し具体的な自決命令があったかについてはさまざまな議論がある。ただ、日本軍が住民に捕虜となることを禁じたことや、手りゅう弾が住民に配られたこと、米軍に対する恐怖心が植え付けられたことなど、自らの命を絶つ選択を住民に強いる状況をつくり上げた(日本軍の強制性)と言える。

住民虐殺(じゅうみんぎゃくさつ) 沖縄戦では米軍との戦闘による被害だけではなく、日本軍による住民虐殺、追い詰められた住民らによる「集団自決」(強制集団死)も多発したことで、多くの犠牲者が出た。敵に見つかるという理由で、壕の中で泣く子どもを日本兵が殺害したり、子どもを殺害するよう親に命じたりする行為もあった。これらの悲劇は各地で証言が残っている。
 日本軍は方言を使い言葉の意味を把握しにくい住民をスパイ視したほか、食料提供の拒否、米軍への投降協力など、さまざまな理由で住民虐殺や壕からの追い出しを行った。

住民スパイ視(じゅうみんすぱいし) 沖縄戦当時、軍事機密が漏れるのを恐れた日本軍は住民をスパイ視した。当時の沖縄では陣地構築や飛行場建設に大人から子どもまで多くの住民が動員された。兵隊が民家を使用するなど軍民が入り混じった状態だった。
 日本軍は住民に対して差別意識を持ち、信用できない存在として扱った。沖縄戦では離島も含め、スパイの疑いで日本軍による住民虐殺(じゅうみんぎゃくさつ)が起こった。

収容所(しゅうようじょ ) 米軍は、日本軍との戦闘と平行して、生き残った住民や日本兵を収容していった。住民たちは中部地区や北部地区に指定された避難民収容地区に送られた。避難民収容地区は16カ所(知念、前原、コザ、石川、漢那、宜野座、古知屋、大浦崎、瀬嵩、田井等、辺土名、粟国、伊平屋、平安座、久米島、慶良間)。コザや宜野座などの収容地区では孤児院が造られ、各地から戦争孤児が集められた。
 これらの収容地区以外は全て、住民の立ち入りは禁止された。米軍は多くの人を収容所へ送り込み、無人となった地域に基地を建設した。基地が造られたことにより、多くの人が故郷に帰ることができなくなった。
 食糧と衣服は米軍から最低限度が支給された。投降すると殺されると考えていた住民たちは飲食物を与えられ、けがの治療もしてくれたので驚いたという。代わりに、住民は米軍の指示に従い、軍用物資の運搬や道路工事などの軍作業を義務付けられた。
 一方で、米兵による女性への暴行も収容地区内では頻発した。米軍上陸前からの民間人避難先が収容所となった北部地域では、人があふれ、食糧が不足。衛生状況も悪かったため、マラリアや栄養失調で死亡する人が後を絶たなかった。また、北部地区では日本軍の敗残兵が出没して食糧を奪ったり、住民を虐殺したりした。
 捕虜(軍人・軍属)は金武村屋嘉の捕虜収容所に収容され、一部はハワイの収容所まで送られた。

シュガーローフ(しゅがーろーふ) 日本名は擂鉢(すりばち)山。慶良間(きらま)チージとも。那覇市安里の北方の丘陵地帯に築かれた陣地。日本軍司令部のある首里城直下、西にわずか2キロの高台にある要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
 戦いは、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4回も頂上の奪取者が入れ替わるなどの激戦の末、18日に米軍が制圧した。米軍は死者2662人と1289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。現在は安里配水池の水道タンクが建てられており、ゆいレールのおもろまち駅が近くにある。(参照:那覇市歴史博物館ホームページなど)

首里城(しゅりじょう) 15世紀から琉球処分(1879年)まで約500年間、琉球王国を統治した王城。那覇港を西側に見下ろす丘陵の上にある。沖縄戦では日本軍が首里城の下に地下壕を掘り、第32軍 が司令部を置いた。壕は守礼門などから首里城の地下を経て、金城町方面へと抜ける総延長約千メートル。激しい空襲や砲撃を想定し、地下15~30メートルに築かれ、司令官、参謀長らの居室や無線室、診療所、作戦室が配置された。
 司令部が置かれたため、シュガーローフ(現・那覇市安里)など首里那覇一帯では日米両軍が激しい戦闘を繰り広げ、多数の死者が出た。首里城は1945年5月、米軍艦などからの砲撃を受け、焼失したとされる。第32軍は本土決戦までの時間稼ぎを意図した持久戦を継続するため5月22日、首里の放棄を決めた。
 1992年に正殿などは復元されたが、2019年10月31日未明の火災(原因未解明)のため、正殿を含む主要7棟が焼失した。32軍壕については、1993~94年度の県調査で、一部が沖縄戦当時に近い良好な状態であることが報告されている。

手りゅう弾(しゅりゅうだん(てりゅうだん)) 兵士が個人単位で携行することがある爆発物。安全装置を解除し新管を作動させた後、4秒前後で起爆した。手で投げるか専用の発射機で投てきするほか、くりぬいた野菜や木の陰などに仕込んで使用することもあった。日本軍が使用した一部の手りゅう弾には陶磁器でできているものもあった。沖縄戦では自決用にも使用された。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー、豊見城村史 第六巻 戦争編)

少年護郷隊(しょうねんごきょうたい) 少年護郷隊はスパイを養成する陸軍中野学校出身者が組織した。その名前には「故郷は自らの手で護(まも)る」という戦意高揚(せんいこうよう)の意味が込められた。本土決戦まで時間稼ぎのため、第32軍の壊滅後もゲリラ戦を展開し、米軍を撹乱させることが狙いだった。
 1944年10月下旬以降、沖縄本島北部の15~17歳の少年たちを動員。第一護郷隊は多野岳(たのだけ)や名護岳(なごだけ)に陣地を作った。第二護郷隊は5月24日~6月2日の戦闘で恩納岳(おんなだけ)の陣地を占領され、久志岳方面(くしだけほうめん)に撤退。東村(ひがしそん)有銘(ありめ)で解散した。(「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」、「とよむあふす 安富祖字誌」参照)

女子学徒(じょしがくと) 沖縄戦では、宮古と八重山の離島を含む県内10校から、主に15~19歳の女子生徒が看護要員として動員された。県立第二高等女学校の「白梅(しらうめ)」をはじめ、戦後は「ひめゆり」「なごらん」「瑞泉(ずいせん)」「積徳(せきとく)」「梯梧(でいご)」などの通称で呼ばれるようになった。
(参考「沖縄戦の全学徒隊」など)

女子挺身隊(じょしていしんたい) 1941年に国民徴用令が改正され、強制的な徴用ではなく自主参加を建前とする勤労動員が実施された。
 43年に14歳以上の未婚の女子は部落会・町内会を単位として勤労挺身隊を編成し、軍需工場などに出勤した。44年8月には「女子挺身勤労令」が公布され、強制力が強められた。

白梅学徒隊(しらうめがくとたい) 那覇市松山にあった県立第二高等女学校4年生56人は、1945年3月6日から日本軍第24師団衛生看護隊で従軍補助看護婦としての集中教育を受けた。3月24日から東風平村(こちんだそん)富盛(ともり)の八重瀬岳にあった第24師団(山部隊)第一野戦病院や同病院東風平分院、具志頭村(ぐしちゃんそん)の新城分院(あらぐすくぶんいん)=ヌヌマチガマ=に46人が配属され、傷病兵の看護(食事の世話、排せつ物の処理、包帯交換)や手術補助(ロウソク持ち、切断した手足の処理)などに当たった。戦後、糸満市国吉に「白梅の塔」が建てられた。
 戦況悪化で6月4日に解散命令が出たが、その前夜、新城分院では500人ともいわれる重症の兵隊らが青酸カリなどで自決。病院解散後、学徒ら22人は戦場で命を落とした。

私立開南中学校(しりつかいなんちゅうがっこう) 戦前の沖縄で正規の5年制中学校として認可された、唯一の旧制私立中学校。1936年、真和志村与儀樋川原(まわしそんよぎひがわばる)(現那覇市樋川(なはしひがわ))に開校。沖縄戦で消滅したが、現在も「開南(かいなん)」という通称地名に当時の名残を残している。
 沖縄戦が始まると、生徒たちは2年生は通信隊要員として第24師団司令部に編入され、4、5年生は鉄血勤皇隊開南隊を編成して第62師団独立歩兵第23大隊に所属した。鉄血勤皇隊としての動員数、犠牲者数は不明だが、生徒182人と教師4人の計186人が亡くなったとされている。

ずいせん学徒隊(ずいせんがくとたい) かつて首里市桃原町(とうばるちょう)=現那覇市首里桃原町=にあった県立首里高等女学校の4年生61人は、看護要員として沖縄戦に動員された。同女学校の同窓会名「瑞泉(ずいせん)」から「ずいせん学徒隊」と名付けられた。
 第62師団(石部隊)の野戦病院の本院(ナゲーラ壕)や各地の分院で負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、食事の準備、排せつ物の始末、死体の処理などを担った。ナゲーラ壕は沖縄自動車道那覇インターチェンジのすぐ近くに位置している。
 同学徒隊は33人が戦争の犠牲になり、糸満市米須の「ずいせんの塔」で慰霊されている。

青酸カリ(せいさんかり) シアン化カリウムの俗称。毒薬で、金属のメッキなどに使われる。1945年5月25日、陸軍病院や野戦病院で撤退命令が出て病院は解散。自力で動けなくなった重傷患者は、青酸カリ入りのミルクが配られ自決を強いられた。

積徳学徒隊(せきとくがくとたい) 那覇市久茂地(なはしくもじ)にあった沖縄積徳高等女学校の女子学徒25人は、1945年3月23日から豊見城(とみぐすく)城跡内に掘られた第24師団第二野戦病院に「従軍学徒看護隊」として動員された。「積徳学徒隊」という呼び名は戦後の通称。
 5月下旬に糸満市(いとまんし)の糸洲の壕に移動し、6月26日の解散命令まで同壕内で避難を続けた。
 解散命令後、4人の学徒が犠牲になったが、そのうち2人の消息は不明。

青年学校(せいねんがっこう) 1935年の青年学校令により、軍国主義体制の強化をねらいとして、それまでの実業補習学校と青年訓練所を統合して設立された学校。
 小学校を卒業後、上級学校へ進学しない勤労青年らが就学対象となった。39年には青年学校への男子の就学が義務制となり、軍事教育にいっそう重点がおかれるようになった。沖縄戦前の44年からは学校単位で陣地構築に動員されることや、軍属として部隊に配属されることもあった。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

戦果(せんか) 本来は戦争や戦闘によって得られた戦果を意味するが、戦後の生活について沖縄の人が「戦果」と語るときには、アメリカ軍物資をかすめ取る行為やその時の盗品を指す。
 終戦後は物資不足のため、軍作業の時に盗んだり、アメリカ軍の駐屯地に出向いたりして「戦果」を得る人(戦果アギャー)が多くいた。(参考・南城市の沖縄戦 証言編ー大里ー)

戦陣訓(せんじんくん) 1941年1月、東条英機陸軍大臣(後に首相)が軍人の心構え、行動規範を示した文書。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過(ざいか)の汚名を残すこと勿れ(なかれ)」とし、敵の捕虜となるのは恥であり、捕まる前には自殺するよう軍人に求めた。
 本来なら兵士向けのこの教えを、日本軍(第32軍)は沖縄住民にも押し付けた。また日本軍は、敵は野蛮な「鬼畜米英」なので「女は暴行した後、殺され、男は戦車でひき殺される」と繰り返し米軍の恐ろしさを植え付けた。
 これらの考えがすり込まれた結果、米軍から逃れられない状況で自ら命を絶ったり、家族で殺し合ったりする悲劇が各地で起こった。

戦災孤児(せんそうこじ) 米軍は4月の本島上陸直後から、占領した各所に収容所を設け、孤児院や老人施設を併設した。孤児院は、辺土名(へんとな)、コザ、田井等(たいら)、糸満(いとまん)、百名(ひゃくな)など10カ所にあり、ピーク時には千人あまりの児童がいたといわれている。
 戦争で親を亡くした子や、逃げる途中で家族とはぐれた子らが収容されていた。その中には自分の名前や住所を言えない乳児や幼児もいた。収容所に避難していた女性らが世話をしていたが、栄養失調で亡くなる子は後を絶たなかった。
 戦後に琉球政府がまとめた戦争孤児の総数は、沖縄本島で3千人に上るとされている。

戦争PTSD(せんそうぴーてぃーえすでぃー) 戦争中に負った心の傷が元に成り、戦後も心身に不調を来すこと。多くの戦争体験者が戦場で人が殺されるところや死体など悲惨な光景を目の当たりにした。普段の生活では体験しないような強い衝撃を受けた時、心に傷が残る。普段は忘れているように見えても心の中に存在し続け、米軍の戦闘機の音を聞いたり、花火を見ることによって過去の記憶がよみがえることがある。これを心的外傷後ストレス障害(PTSD)という。医師の調査によると沖縄戦体験者の約4割がPTSDを発症しているか、発症する可能性が高い深刻な心の傷を抱えているという。

戦争マラリア(せんそうまらりあ)→マラリア

戦没者の遺骨(せんぼつしゃのいこつ) 沖縄県平和祈念財団が運営する戦没者遺骨収集情報センターによると、沖縄戦戦没者の遺骨は18万8136体と推計されていて、2021年3月末の時点で2822体が収骨されていないと考えられている。戦後すぐに親族の遺骨を収集できたケースは珍しいとみられ、現在でも、多くの遺骨が地中に眠る。遺骨収集の多くはボランティアの力に委ねられている。

疎開(そかい) 戦時中、戦災が起きる前に自宅を離れ避難すること。沖縄では1944年7月から約7万人が九州各県へ疎開した。疎開は、国が決めた政策として行われ、日本軍の食料を確保することや、お年寄り、子ども、女性たちが足手まといになることが理由だった。
 このうち子どもたちの「学童疎開」は、熊本に2612人、宮崎に3158人、大分に3141人の計6111人。疎開した学童たちは受け入れ先の学校内や寺、旅館などで引率者とともに寝泊まりをした。寒さや空腹、伝染病などで犠牲となる子どももおり、過酷な生活を強いられた。その体験は「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)」という言葉で語られている。
 周辺海域には米軍が待ち受けていることも多く、海上移動は危険を伴うものだった。疎開学童を乗せ、44年8月22日に沖縄から鹿児島へ向けて航行していた船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷を受けて沈没し、児童らを含む約1500人もの犠牲者を出した。
→対馬丸

楚辺クラガー(暗川)(そべぐらがー(くらかわ)) 読谷村(よみたんそん)の米軍トリイ通信施設内の雑木林に囲まれた洞穴内にある湧き水。昼でも暗いことから「暗川(くらかわ)」と呼ばれている。
 現在は暗川の入り口から中に向かって整備されている。戦前から楚辺の拝所になっており、かつては楚辺唯一の飲料用水源だった。暗川は約2千平方メートルのくぼ地内にあり、そこからさらに20メートルほど地下に降りた所に水を満々とためている。
 沖縄戦中は楚辺の指定避難所であったため、米軍上陸後に水辺近くに避難していた住人のうち8人が「入水自決(じゅすいじけつ)」(強制集団死)したといわれている。(「読谷村史・戦時記録上巻」参照)