沖縄戦事典(ま行)



前川民間壕(まえかわみんかんごう) 1944年10・10空襲のあと、玉城村前川(たまぐすくそんまえかわ)(現南城市玉城前川(なんじょうしたまぐすくまえかわ)の住民らは集落の西側約300~400メートルの地域に防空壕を掘った。雄樋川(ゆうひがわ)沿いの崖の中腹に開口部がある。内部の壁面にはつるはしで掘ったり、削ったりした跡が残っている。断崖の中腹の石灰岩におよそ1キロにわたり50以上の穴が掘られ、多くは内部で連結する構造となっている。
 前川の住民は戦況が激しくなるとこの壕に避難した。一方、住民の集団自決(強制集団死)も起きたとされている。前川民間壕は現在も残されている。周辺は草木に覆われ、近くには前川樋川(まえかわひーじゃー)が流れている。(南城市文化課ホームページなど参照)

本部住民の戦争(もとぶちょうみんのせんそう) 本部町では、1944年の「10・10空襲」で港や弾薬庫があった町営市場が焼かれた。45年4月には、宇土部隊(うどぶたい)や清末隊(きよすえたい)の陣地があった八重岳や真部山を中心に、激しい戦闘を繰り広げ、日本軍を頼って八重岳(やえだけ)などに避難した住民は戦渦に巻き込まれた。米軍が4月17日に八重岳を占領した後も、伊江島の米軍艦船を攻撃する特攻隊に向けた砲撃の流れ弾や、米兵による敗残兵の掃討作戦で住民の犠牲が後を絶たなかった。集落に逃げ戻り、米軍の監視下に置かれた住民は、今帰仁村(なきじんそん)の西部に移され、6月下旬には久志村の大浦崎(おおうらざき)収容所にトラックで連れて行かれた。約2万人が、床も壁もない集団のテント生活を送った。配給量は少なく、栄養失調と不衛生のため、大勢がマラリアにかかり毎日5、6人が亡くなった。
 11月に本部への移動が許可され、11月17日に移動が完了した。しかし、飛行場建設のため米軍に土地を接収され、転居を余儀なくされた人もいた。(参考・町民の戦時体験記編集委員会『町民の戦時体験記』、本部町史通史編・上、本部町史資料編4・新聞集成「戦後米軍統治下の本部」)

前田高地(まえだこうち) 現在の浦添城跡を含む、前田集落の北側に広がる標高120メートルの高地。沖縄戦で、首里に置かれた第32軍司令部を守るため日本軍が防衛線を張り、進攻してくる米軍と激戦となった。米軍はのこぎりで切ったような崖だとして「ハクソー・リッジ」と呼び、2016年11月にはメル・ギブソン監督の同名映画も公開された。
 浦添市によると前田集落には戦前934人の住民がいたが、うち551人が沖縄戦で亡くなった。戦死率は59%に上り、日米攻防のし烈さを物語っている。(人数、戦死率は県史参照)

マレー作戦(まれーさくせん) 1941年12月8日に開戦した太平洋戦争におけるイギリス領マレー半島とシンガポール島への侵攻作戦。マレー半島やインドネシアの原油やスズなどの資源獲得などが主な目的だった。
 山下奉文中将(やましたともゆき)が司令官を務める陸軍第25軍の第18師団は、海軍による真珠湾(しんじゅわん)奇襲攻撃に先立つ12月8日未明、マレー半島のコタバルに奇襲上陸した。25軍はその後、英軍と戦闘を交えながらクワンタンやクアラルンプールなどを次々と占領し、翌年2月15日にはシンガポールを陥落させた。
 陸軍の戦死者は3千人以上に上った。(防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書マレー進攻作戦」参照)

摩文仁(まぶに) 本土で戦争準備ができる時間を稼ぐため、第32軍は司令部のあった首里で戦争を終わらせず、戦闘を継続する持久作戦をとった。1945年5月末、首里から喜屋武半島(きゃんはんとう)に撤退し、軍司令部は摩文仁村(現・糸満市(いとまんし))摩文仁の丘の壕に移転し、牛島満(うしじま・みつる)司令官は1945年5月30日に到着した。
 その後、摩文仁が重要拠点と米軍に察知され進攻された。日本軍は圧倒的な米軍を前にどうすることもできなかった。6月22日(23日説もある)には牛島司令官が自決したが、司令官は「最後まで戦え」と命令したため、戦闘は終わらなかった。その後の米軍の掃討戦(そうとうせん)で、日本兵やそれよりもはるかに多い住民が犠牲になった。(「糸満市史」参照)

マラリア(まらりあ) マラリア原虫を持った蚊に刺されることで感染する病気。寒気で体が震え、その後40度近くに体温が上昇する。この震えと高熱がマラリアの種類によって、2?3日ごとに繰り返され、次第に体力が衰えていく。体内では赤血球が破壊され、悪性だと死に至ることも多い。
 戦争中は体温の上昇を抑えるために、バショウの幹を枕にして頭に井戸水を掛け流し、子どもは水に濡らした桑の葉を額に乗せ、対処した。薬は手に入らず、ニガナやヨモギの青汁を薬の代わりに飲むことが多かった。

民間人収容所(キャンプ)(みんかんじんしゅうようじょ) 米軍の占領地となった場所では、捕虜収容所とは別に民間人収容所(キャンプ)が設置された。米軍により各収容所では責任者(メイヤー)や民警(CP)が選ばれ、一つの地区を形成し、戦後の自治体の始まりになった。衛生状態などは決して万全ではなく、飢えや負傷、マラリアなどでお年寄りや子どもが次々に死んでいった。また、米兵による住民への暴行や強盗が多発した。収用された人は1945年10月からもともと住んでいた土地へ戻り始めた。

真栄里の壕(まえざとのごう) 東風平村(こちんだそん)富盛(ともり)=現八重瀬町=の八重瀬岳にあった日本軍の24師団の山第一(やまだいいち)野戦病院が1945年6月4日に閉鎖された後、白梅学徒(しらうめがくと)46人が戦場に放り出された。そのうち16人が高嶺(たかみね)村真栄里(まえざと)=現糸満市=に移った同病院壕に再び合流した。
 18日に米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・バックナー中将が真栄里の高台で日本軍の砲弾により戦死したことから、米軍は近辺の壕を激しく攻撃。真栄里の壕も21?22日にかけて手りゅう弾や火炎放射器の猛攻撃に遭い、学徒10人が命を落とした。真栄里には47年に白梅の塔が建立され、戦没した22人の白梅学徒や教職員など149人を悼み、慰霊祭が行われている。

満州国と満蒙開拓青少年義勇軍(まんしゅうこくとまんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん) 中国に駐屯していた日本の陸軍部隊・関東軍は「満州事変」の翌年の1932年、土地や豊富な天然資源を確保するため現在の遼寧省(りょうねいしょう)、吉林(きつりん)省、黒竜江省などの占領地に、かいらい国家「満州国」を樹立した。
 38年、日本政府は「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」の制度をつくり、数え16歳から19歳の青少年を対象に満州へ移住させた。集められた青少年は茨城県で訓練を受け、満州に送られた。義勇軍発足から45年の敗戦まで満州に送られたのは全国で約9万2千人。沖縄からは569人だった。

満州での邦人犠牲(まんしゅうでのほうじんぎせい) 1945年8月9日のソ連参戦で、満州開拓団、満蒙(まんもう)青少年義勇軍として日本から「満州国」(中国東北部)に送られた多数の開拓民が犠牲になった。武装したソ連兵による日本人襲撃や略奪だけでなく、それまで差別されてきた現地中国人による攻撃も加わった。日本人男性たちは、極寒のシベリアに強制労働のために抑留され、女性の中にはソ連兵による性的暴行の被害を受けた人もいた。満州開拓団の死者は、約8万人といわれている。

真栄平住民の避難(まえひらじゅうみんのひなん) 1945年3月に米軍の攻撃が始まると、真壁村(まかべそん)=現在は糸満市=真栄平(まえひら)の住民はアバタガマなどの自然壕や、自分たちで掘った避難壕に避難した。特に、攻撃が激しくなるにつれて、住民の半数がアバタガマに避難するようになった。集落は米軍の砲弾でほどんどが焼き払われてしまった。
 5月末ごろ、アバタガマにいた住民は日本軍に追い出され、屋敷壕、墓、トンネルなどに避難したが、戦闘に巻き込まれたり、砲弾が撃ち込まれたりして、全滅する家族が相次いだ。沖縄戦による真栄平の住民の戦没率は55.5%になり、糸満市内では際立って高くなっている。