沖縄戦事典(は行)



南風原町喜屋武(はえばるちょうきゃん) 現在の南風原町は沖縄戦で、日本軍第32軍司令部のあった首里の後方陣地として位置付けられていた。喜屋武集落近くの黄金森(ごがねもり)には、沖縄陸軍病院壕が残っている。1945年4月1日の米軍の本島上陸以降、喜屋武には前線から運ばれてきた負傷兵があふれるようになり、地元住民らは家族・親戚らで造った避難壕に入るようになった。
 4月下旬から5月初旬になると、大里(おおざと)や東風平(こちんだ)などに避難する住民が増えた。南部へ避難した後に、米軍に捕えられた人々は船やトラックでやんばるの収容所へと移動させられた。(喜屋武字誌「喜屋武の歴史と文化」など参照)

バックナー中将(バックナーちゅうじょう) サイモン・B・バックナー(1886~1945)。米第10軍司令官。日本軍第32軍と激しい戦闘を繰り広げ、1945年6月18日、高嶺村(たかみねそん)(現糸満市(いとまんし))真栄里集落の前線を視察中に戦死した。日本軍の攻撃によるものといわれるが、その死については詳細な証言や資料がない。
 バックナー中将の死後、米軍は報復攻撃として、真栄里(まえざと)や隣の高嶺村(現糸満市)国吉で兵隊や非戦闘員の区別なく殺りくしたとされている。糸満市史によると、米兵が捕虜にした男性20~30人を射殺したとの目撃証言もある。

ハワイ捕虜(はわいほりょ) 1945年6~7月、米軍は沖縄戦の県人捕虜3600人余をハワイに送った。数回の移送船に分けて、サイパン島やテニアン島を経由し約20日ほどかけたと言われている。移送船の中には劣悪な環境の船もあり、捕虜を裸で詰め込んだことから「裸船(はだかせん)」と称された船もあった。
 上陸後、捕虜はオアフ島のホノウリウリとサンドアイランドの収容所に連行された。収容所で県人捕虜は清掃や草刈り、陸軍病院の建築などを行い、長い人で1年半の歳月を捕虜として過ごした。(仲程昌徳『ハワイと沖縄』参考)

バンザイクリフ(ばんざいくりふ) サイパン島における日米の激しい戦いで多くの民間人や日本兵が、北端のマッピ岬に追い詰められた。人々は皇民化教育の下、米軍の捕虜になることを拒み、激しい艦砲と空襲の中を逃げ惑った末、断崖から海などに身を投げた。仲間や家族同士の殺し合いも行われた。岬の周辺では多くの人々が「万歳」などと叫びながら身を投じたことから戦後、「バンザイクリフ」と呼ばれるようになった。米軍に収容された民間人は8月には1万5千人を数え、その多くが戦争で親を亡くした15歳以下の孤児だった。

繁多川(はんたがわ) 繁多川の住民は自然の洞穴に出入り口を設け、避難壕として使用した。5月に入り米軍が首里近くに進攻し始めると、繁多川付近の住民の壕は、兵士の待機壕として利用されることになり、日本軍は住民に移動を要請した。住民は壕を交換して、野戦重砲連隊本部の壕だった東風平村(こちんだそん)(現八重瀬町小城(やえせちょうこぐすく))の壕に移動することになった。
 繁多川の住民は、頑丈な壕に守られていたため、北部への疎開は遅れた。戦況が悪化すると軍により壕を追い出され、多くの人々が激しい地上戦に巻き込まれた。(『沖縄県史各論編第6巻 沖縄戦』参照)

避難壕(ひなんごう) 沖縄戦で住民が身を隠した壕。主に自然壕。琉球石灰岩からなる地域には鍾乳洞などの自然壕が多くあり、住民の命を救った。糸満市伊敷(いとまんしいしき)の轟の壕、八重瀬町具志頭(やえせちょうぐしちゃん)のガラビ壕、南城市玉城(なんじょうしたまぐすく)の糸数壕など千人ほどが入れる規模のものをはじめ、大小無数にあった。
 光も音も届かない中で多くの住民や兵士が息を潜めた。住民が兵士に壕を追い出されたという証言も多くある。今も犠牲者の遺骨が収集できずに残されている壕もある。

避難小屋(ひなんごや) 1945年に県がつくった北部疎開計画に基づき、中南部から疎開してくる避難民を受け入れるため、国頭郡(くにがみぐん)では地元住民により避難小屋が建築された。字ごとに建築する棟数などが指示された。小屋は集落の山手に建築され、材料は住民が山から調達した。切り出した木を柱にし、屋根にはカヤや細い竹を、床には木の葉を敷いた。
 青壮年は徴兵されているため、女性や年配者が建築作業にあたった。小屋は10?20人がかりで、日に1軒ほどが建てられた。
 県が本島中南部から北部へ疎開を予定した数は、1945年3月までに10万人だったが、実際は約8万?8万5千人が移動したとみられる。

ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい) 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成された女子学徒隊。1945年3月23日に、15歳から19歳までの生徒222人、教師18人が南風原村(当時)の陸軍病院に動員された。その後、第32軍司令部経理部や各分室にも配置された。日本軍の命令で南部の自然洞窟に撤退したが、6月18日に解散命令が下された。
 生徒123人、教師13人が亡くなったが、動員されてからの約3カ月で亡くなった人が19人なのに対して、解散命令を受けて戦場に放り出された後の数日で100人以上が犠牲になった。

ひめゆり平和祈念資料館(ひめゆりへいわきねんしりょうかん) 沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市伊原)の後方に1989年6月23日、開館した。沖縄陸軍病院壕を再現したジオラマや、亡くなった学徒、教師の写真が紹介文とともに並んでいるほか、体験者の手記、証言ビデオを見ることができる。
 かつては元学徒の生存者が直接語る戦争体験講話があったが、高齢化などを理由に2015年3月で原則終了。現在は沖縄戦を体験していない職員が、元学徒の証言映像などを使った平和講話(要予約)や展示物の説明をしている。

フィリピンでの戦争(ふぃりぴんでのせんそう) フィリピンは1565年から1898年までスペイン、98年から1935年まで米国の支配下にあった。35年から独立を予定された米国の自治植民地になったが、41年に日本軍の攻撃を受けたことで、第2次世界大戦における日米の戦場となった。
 41年の開戦当初は日本軍が米側を圧倒し、42年5月に米軍が降伏、アメリカ極東軍司令官のダグラス・マッカーサーはフィリピンから脱出した。44年10月にマッカーサー率いる米軍がフィリピンに再上陸し、日本との戦いを再開。米側は現地のフィリピン人ゲリラの協力も得ながら戦いを優位に進め、45年9月2日に日本軍が降伏、フィリピンでの戦いは終結した。

フィリピンへの移民(ふぃりぴんへのいみん) 日本からフィリピンへの移民は1904年、道路工事の労働者として渡航したのが始まり。この時、金武町(きんちょう)出身の大城孝蔵(おおしろこうぞう)が沖縄県移民の監督だった。以後、毎年の移住が続き、県出身者は日系人の中でも全国一だった。
 大城らはミンダナオ島ダバオ州に移り住み、マニラ麻を栽培した。当時、船舶用のロープとして需要が多かったマニラ麻に目を付けた日本人の経営する農園が大きな利益を得ていた。そこに働き口を求めて沖縄から多くの人が移民としてミンダナオ島にやってきた。

フィリピンへの日本人移民(ふぃりぴんへのにほんじんいみん) フィリピンへの日本人移民は1500年代から始まったが、1900年初頭にピークを迎えた。米国統治下だった1900年代前半は、道路建設工事などの労働者としての移民から始まり、その後、麻栽培を手掛けたり、商店事業などの商売を行う人も増えた。特に麻栽培は、第1次世界大戦で艦船用ロープに使用するアバカ麻の需要が急増したことなどから麻産業の中心のミンダナオ島ダバオは栄えた。ダバオは「東南アジア一の日本人社会」といわれるほどで、日米開戦直前は約2万人の日本人がいたとされている。

ブーゲンビル島(ぶーげんびるとう) ニューギニア島の東、ソロモン諸島にある約9千平方キロメートルの島。太平洋戦争中、日本軍が米国とオーストラリアの連携を断ち切るための作戦の一環で占領した。1943年11月には米軍が島の西側にあるタロキナ岬に上陸し、飛行場を建設した。その後、日本軍が飛行場を攻撃したが失敗した。
 この島への日本軍の物資輸送は終戦までに次第に絶たれたため、食料や医療品が不足し、多くの兵士が餓死したり、病死したりした。

不発弾(ふはつだん) 沖縄戦で米軍が使用した弾薬は約20万トンとされ、日本本土に投下した爆弾(16万トン)を上回る。そのうち残存した不発弾は1万トン(推計)。戦後間もない1948年には、米軍爆弾処理船LCTの爆発事故により102人が死亡するなど、不発弾による死者は相次いだ。日本復帰後にも頻度は減ったものの死者が出ており、現在でも毎週のように不発弾処理のために交通規制が敷かれている。

米軍上陸(べいぐんじょうりく) 4月1日午前8時30分、米軍は沖縄本島の中部西海岸(現在の読谷村(よみたんそん)、嘉手納町(かでなちょう)、北谷町(ちゃたんちょう))への上陸作戦を開始した。そこは大軍が一挙に上陸するには最適の場所で日本軍の北(読谷)、中(嘉手納)の両飛行場があった。
 米軍の沖縄攻略の目的は、日本の領土である沖縄を占領することにより、日本軍と南方、中国方面との連絡網を断ち切り、日本本土への出撃基地にすることだった。日本軍はほとんど反撃を加えることなく、米軍の上陸を許した。米軍はあっさりと北・中両飛行場を占拠した。(「ジュニア版 琉球・沖縄史」参照)

米軍の性犯罪(べいぐんのせいはんざい) 沖縄戦中から米兵による女性暴行が多発し、戦後も続いた。対策として、日本軍の慰安婦(いあんふ)をさせられていた女性たちが今度は米兵の相手をさせられることもあった。1946年に警察に届け出のあった米兵の性犯罪は103件で、大半は十分な取り調べもなく処罰を免れた。ベトナム戦争中も米兵の凶悪犯罪が多発した。72年に沖縄が日本に復帰した後も基地は残り、米軍による性犯罪は後を絶たない。(参考・女たちの戦争と平和資料館編「沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」)

米軍普天間飛行場(べいぐんふてんまひこうじょう) 宜野湾市の市街地中心部にある米海兵隊基地。面積は約480ヘクタール。沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍は1945年4月下旬、住民を野嵩収容所などに送るなどして排除した。本土決戦に備えて飛行場建設を始めた。もともとは集落や畑のあったところに滑走路や関連する施設が造られた。村の神山(かみやま)、中原(なかはら)、新城(あらぐすく)、宜野湾(ぎのわん)などの地域はほとんどの土地が接収され、豊かな畑や村役場、国の天然記念物に戦前指定されていた「宜野湾並松(じのーんなんまち)」など、それまでの生活風景は失われた。
 現在の飛行場内に住んでいた人々には帰ることが許されず、周辺に居住せざるを得なかった。50年の朝鮮戦争などを契機に飛行場の滑走路が延長されるなど、軍事拠点としての機能は沖縄戦終了後に拡充された。
 1997年に日米両政府が全面返還で合意したが、県内移設を条件づけたため、返還は実現していない。(宜野湾市史など参照)

米兵の民間人殺害(べいへいのみんかんじんさつがい) 米公文書によると、1945年6月24日、国頭村辺土名(くにがみそんへんとな)で米第10軍第27歩兵師団所属の大尉が日本兵の急襲により死亡。翌日、米軍の捜索により民間人3人が付近で拘束された。3人は米軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問され、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書には「1人は敵兵(日本兵)の疑いがあった」と記述されている。中尉は民間人3人を、穴を掘った場所に連行し、1人を銃殺。周囲を25人ほどの米兵が取り囲んでいた。
 米国の調査官は「処刑の場面には軍政府の責任者がおらず、直接の責任を取る陸軍将校も不在だった」「拘束された民間人らは軍法会議にかけられたわけではなかった。事件は張り詰めた感情と暴力的な士気によって起こされた」と結論付けている。

平和の礎(へいわのいしじ) 沖縄戦終結から50年の1995年、全ての戦没者の追悼と恒久平和の希求、戦争の教訓を正しく継承し、平和学習の拠点とするなどの趣旨で建設された記念碑。沖縄県は、平和の礎を糸満市摩文仁の平和祈念公園内に設置した。国籍や人種、敵味方、軍人・非軍人の区別なく沖縄戦で亡くなった全ての人の氏名を石板に刻銘した。
 沖縄出身者については、県遺族会の要望で1931年9月の満州事変以降の戦没者が刻銘された。沖縄出身者以外は戦死した日米英の兵士のほか、台湾、韓国、北朝鮮から連行され、氏名が判明した死没者も刻銘した。2020年6月22日現在、24万1593人が刻銘されている。
 戦争で亡くなった県民の氏名を集めるため、県独自で全戸調査を行い、約5千人のボランティアが協力した。一家全滅などで氏名が分からない乳幼児も「○○の子」と刻んだ。(参考・「名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦」、2020年06月23日付の琉球新報記事)

平安座市(へんざし) 1945~46年に米軍政府が制定した収容地区名。浜比嘉島(はまひがじま)も含めて平安座市と名付けられた。平安座島の地元民だけでなく、伊計島(いけいじま)や宮城島(みやぎじま)、屋慶名(やけな)(現在のうるま市)などから捕れた住民が収容された。戦前は3千余りの人口だったが、一時は8千人以上にふくれあがった。その大半を女性が占めていたという。
 空襲で焼け残った家屋だけでは受け入れが足りず、畜舎やテント小屋での生活を強いられた人もいた。病院や食堂も置かれた。45年に実施された平安座市議会議員選挙では女性にも選挙権が与えられた。(角川日本地名大辞典、平安座自治会「故きを温ねて」参照)

奉安殿(ほうあんでん) 天皇、皇后の写真(御真影)と、天皇が定めた教育の基本方針「教育勅語」を納めた小さな建物。1887年ごろから戦前まで、県内の公立学校に設置された。天皇への忠誠心を高め、日本国民としての意識を高めるための「皇民化教育」に使われた。
 御真影は天皇の分身とされ、奉安殿の前を通る時には最敬礼をするよう教えられた。現在沖縄市、本部町などに残っているが、終戦後にほとんどが壊された。

防衛隊と学徒隊(ぼうえいたい) 沖縄戦で戦闘に参加したのは徴兵令にもとづいて召集された正規の軍人だけではなかった。兵役からもれた満17歳から満45歳までの男子は防衛隊に編成されて戦争にかりだされた。
 実際には人数をそろえるため、17歳以下や45歳以上の者にも適用し、病人や身障者まで召集した例があった。県史では2万2222人のうち6割にあたる約1万3千人が戦死した。県史によると「米軍の報告書では、防衛隊では約2万人が召集され、戦死傷者は約50%、脱走者は20%と見積もっている」。(2010年発行 新城俊昭著『沖縄から見える歴史風景』)

防衛隊(ぼうえいたい) 「兵役法」に基づく現地召集中心の補助兵力部隊。南西諸島防衛のため沖縄に配備された第32軍は、第9師団の台湾移駐などによる兵力不足を補充するために、住民2万数千人を防衛召集した。
 19歳以上の男性は現役兵として召集されていたため、戦闘部隊の後方支援や作業要員として、残っていた17歳から45歳までの男性をかき集めた。しかし実態は“勝手召集”で、17歳未満の少年や70代の高齢者も入隊させられた。戦死者は約1万3千人に達したとみられている。

ボーフィン号(ぼーふぃんごう) 全長約95メートルの米海軍の潜水艦。最大で24本の魚雷を搭載。1944年8月22日、疎開学童を乗せた対馬丸に向けて魚雷を発射し、撃沈させた。元乗組員の話から、海に浮上して発射したことや、軍事物資などの輸送を防ぐために船の種類を問わず撃沈させる任務を担っていたことが分かっている。ボーフィン号は那覇港を出発した時から対馬丸を含む船団を確認し、追尾していた。
 対馬丸の乗船者は1788人。1484人(2020年現在の氏名判明分)が犠牲になった。15歳以下の子どもたち1000人余りを含む。ボーフィン号は1943年8月から45年7月までの間に、日本の艦船44隻を沈めたといわれている。(人数は県史参照)

北部地域への疎開(ほくぶちいきへのそかい) 戦時中、沖縄県は子どもたちや戦争に参加しない県民らの疎開を行った。本島中南部で激しい戦闘が繰り広げられると考えられていたため、県外のほかに本島北部地域も疎開地の一つに選ばれた。
 1944年10月、那覇市内の大半が焼失した「10・10空襲」の後は北部に避難民が来るようになり、学校や公共施設を開放して受け入れていた。1945年2月以降は県民の疎開が本格化し、北部の各地に疎開者のための避難小屋が建てられた。
 しかし、遠い上に食料の少ない北部に避難する県民は少なく、県が予想していた人数をはるかに下回ったという。

北部避難(ほくぶひなん) 1945年2月、沖縄本島中南部地区にいる住民の北部地区への疎開が決定された。3月23日に米軍の攻撃が始まると、住民の北部避難は数を増した。
 本島北部に避難を始めた人々は、黒砂糖など食料を担げるだけ担いで避難指定先を目指して歩いた。山中の避難は約3カ月間続いた。食料が尽きると飢えとの闘いが始まった。イモやヘゴなどの植物を食べて飢えをしのいだが、栄養失調で亡くなる子どもや老人がいた。
 マラリアで亡くなる人もいた。(『沖縄県史各論編第6巻 沖縄戦』参照)

ポナペ島(ぽなぺとう) 沖縄本島から南東約3900キロ先、ミクロネシア連邦・ポンペイ島のかつての呼称。日本は1914年の第1次世界大戦にポナペ島を含む南洋群島を占領した。20年には国際連盟から委任統治が認められ、統治は45年の太平洋戦争終結まで続いた。「沖縄県史」によると、県出身者のポナペ島移住は、24年の4人を皮切りに、37年には1145人と在留邦人の3割を占めるまでに急増し、主に水産業や農業に従事していたとみられる。しかし41年に勃発した太平洋戦争の激化に伴い、女性や子どもたちは本土や沖縄に疎開し、終戦後もほとんどの生存者は引き揚げを余儀なくされた。

捕虜(ほりょ) 一般的に捕虜とは、戦争などで敵に捕まり権力下に置かれた軍人らのこと。ハーグ条約では捕虜の食料、寝具、衣服は捕らえた国の軍隊と同等にするように定められている。しかし、日本軍は米軍などの敵軍に情報が漏れることを恐れ、兵士の投降を厳しく戒めていた。そのため、旧日本軍は沖縄戦で動員された学徒隊らに対しても「敵軍に捕まると辱めを受けて殺される」などと言って、手りゅう弾などを手渡し捕虜になりそうになった場合は敵軍を道連れにして、自殺するように求めた。
 実際は米軍に投降した多くの兵士、住民は県内各地に造られた収容所に入れられて助かった。