戦争の悲惨さ伝える「生き証人」 全国先駆け文化財指定も 南風原陸軍病院壕<戦跡で継ぐ記憶 沖縄・長野で考える>㊤の続き


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厚生省遺骨収集作業で沖縄陸軍病院南風原壕から次々と掘り出される遺骨=1985年2月18日、南風原町

 南風原町は1990年、沖縄陸軍病院南風原壕を文化財指定した。全国的にも戦争遺跡の文化財指定は例がなかった。「南風原壕は戦争の悲惨さを教える生き証人であり、町にとって沖縄戦を知るかけがえのない文化財である」。文化財保護委員を務めていた吉浜忍さん(72)=元沖縄国際大教授=が試行錯誤しながら書いた、指定理由だ。

 町は指定後、壕の構造や埋没状況を調べ、17年かけて公開につなげた。安全を最優先に、戦時中の状態を保ち、補強はできるだけ安価に整備した。公開の2007年、ガイド養成講座も開いて人材を育成した。

 県の戦争遺跡の文化財指定は一例もない。首里城火災後、第32軍司令部壕(32軍壕)公開の声が強まり、県は21年に検討委員会を設置。この検討委でも32軍壕について、県の文化財指定を望む意見が相次ぐ。

 県はまだ文化財調査を入れず、土木業者が第1坑道と第1坑口の位置特定を最優先に調査を進める。戦跡考古学が専門の當眞嗣一さんは、戦跡に歴史認識の問題が絡むことも念頭に「一時の政治的なレベルでは長続きしない。政権に絡め取られる懸念がある」と話し、県の検討の議論自体を文化財保護の制度にのせる必要を指摘する。

 県は文化財指定に向け、第5坑口周辺の土地の購入を予定する。32軍壕に関する県の検討委員も務める吉浜さんはそれを歓迎し「南風原は理念とプロセスがしっかりしていた。一つの自治体でもこれだけできることを示した」と話し、県にとっても、時間をかけて整備する方法が参考になるという考えを示す。

 吉浜さんは、町の文化財保護行政の中にいながら、住民運動や全国の戦跡保存運動ともつながり、理解者を増やしてきた。

 「市や県の中に理解ある人がいて、取り組みの裾野を広げていくことも大事だ」とも話し、行政と住民の意識を合わせていくことの重要性を強調した。
 (中村万里子)


<用語>沖縄陸軍病院南風原壕

 沖縄陸軍病院(球18803部隊)は第32軍直属で1944年5月に九州の熊本で編成し、6月から那覇市内で活動を始めた。10・10空襲後、南風原国民学校を接収し壕を掘り進めた。軍医、衛生兵、看護婦ら約450人、ひめゆり学徒隊約200人で編成。45年4月の米軍の沖縄本島上陸から日本軍が南部撤退する5月下旬までの約2カ月間、患者は延べ1万人に達したとされる。重傷兵も多く、壕内は血やうみの臭いと叫び声、地獄のような惨状だった。南部撤退の際は青酸カリで重傷兵は処置された。沖縄陸軍病院南風原壕として文化財指定され、20号壕が一般公開されている。壕の高さと幅は約2メートル。片側に二段の寝台が置かれていた。

 


 

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