南風原町喜屋武の大城逸子さん(63)にとって、沖縄陸軍病院南風原壕のある黄金森は昔からの遊び場だった。爆弾の跡で穴がポコポコあいていたが何なのかを知らず、学校でも沖縄戦を教えられなかった。沖縄戦が教育で扱われるようになったのは、日本復帰以降のことだ。
2007年に「南風原平和ガイド養成講座」を受講し、身近な人たちの体に残る傷痕が「戦争のせいだったのか、と気づいた。知らないって怖い」。それから戦争体験者の聞き取りも始めた。
外気を遮る扉を開け、大城さんの案内で真っ暗な細い20号壕を進む。天井に火炎放射の焼け跡がこびりついている。沖縄戦当時、一帯に30余りの壕が掘られていた。
1980年代の厚生省(当時)の遺骨収集で壕の存在が注目された。
南風原高校教師だった吉浜忍さん(72)は生徒らと町内全ての集落で戦災調査し、町内では戦争体験を残す機運も高まっていた。
(中村万里子)
9月、沖縄から32軍壕と戦争の記憶を継承する有志が長野県の松代大本営地下壕を訪問する。戦跡の保存と公開を巡る視点や方法を考える。
戦争の悲惨さ伝える「生き証人」 全国先駆け文化財指定も 南風原陸軍病院壕<戦跡で継ぐ記憶 沖縄・長野で考える>①の続き