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「生まれてきたなら前を向くだけ」不安乗り越え…育児の「当たり前」に喜び<手のひらの命・低出生体重児の今>


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笑顔を見せる玉城愛梨さん(左)と榮人さん=2021年2月(提供)

 「胎児発育不全」「未熟児」「予後」―。2015年末、当時妊娠7カ月だった玉城愛梨さん(36)=沖縄市=はインターネットでおなかの子に関する情報を調べていた。産んでも生きていられるのか。どんな状態で生まれてくるのか―。不安でいっぱいだった。

 おなかの子が胎児発育不全だと知ったのは、ポリープを取るために通っていた県立中部病院で診察を受けた時。医師の「赤ちゃん、ちっちゃいね」という言葉から検査が始まり、その結果、通常2本ある臍帯(さいたい)の動脈が1本しかなく、栄養が十分に胎児に届いていないことが分かった。

 医師は赤ちゃんが染色体の病気「18トリソミー」の可能性があることや、生まれる時に腸が飛び出していたり、母体のおなかの中で亡くなったりする可能性もあることなどを説明した。

 それ以来、愛梨さんは「未熟児の写真を(インターネットで)見まくった」。調べれば調べるほどショッキングな写真や情報を目にして、一時はパニック障害になるほど不安定な状態に陥った。

 「生きた心地がしなかった」と振り返るほどの不安を抱えたまま、16年1月29日、妊娠30週の時に緊急帝王切開で出産。通常であれば1300グラムほどあるはずの週数だが息子の榮人(えいと)さんは778グラムで生まれてきた。

 愛梨さんが一目見て思ったのは「普通の赤ちゃんがただ小さくなった感じ」。亡くなることも覚悟していたからこそ、小さくても無事に生まれてきた姿に動揺は少なかった。「おなかの中で死ぬかもしれないと言われていた子。生まれてきたなら、あとはお医者さんができることはしてくれるから、前を向くだけと思った」

 出生後すぐに先天性心疾患があることが分かり、県立南部医療センター・こども医療センターに転院した。体重がなかなか増えず、手術を受けられる体重1600グラムになるまで待たなければならなかった。医師からはその間に亡くなる可能性もあると言われ、手術の成功率は「半分」と告げられていた。

 この先を考えれば考えるほど不安になった。不安を払拭するためにも、愛梨さんは無事に手術を終え退院できる日まで、さまざまな願掛けをして心の支えにした。髪を染めない、罰当たりなことはしない、毎日会いに行く―。「大丈夫。この子は無事に生まれてきた。強い子なはず」と信じ続けた。約4カ月かかってようやく1600グラムを超えた。手術を終え、生後5カ月で退院した。

 入院中はだっこをするにも看護師らの許可が必要だったが、自宅では泣いたらすぐにだっこしてあげられて、オムツも自分が替えてあげられる。育児の中の「当たり前」のことが、毎日できることがうれしかった。

 愛梨さんは、榮人さんが3歳になるころまでには知的な遅れに気付いていた。意思疎通ができなかったり、親と他人の区別がつかず誰にでもついて行ったり。7歳上の長女の時の成長とは明らかに違った。医師からも発達がゆっくりになる可能性があることは告げられており、事実を受け止めるのに時間はかからなかった。3歳で「精神発達遅滞」と診断された。愛梨さんは「生きているなら『何があってもどうにかしたら大丈夫』って思えるようになっていた」と振り返る。

 現在榮人さんは小学1年生で、地域の学校の特別支援学級に在籍する。進学を決める際には、発達の段階に合わせてくれる特別支援学校に進むかどうか迷った。だが幼稚園からの友達など、同年代の子とも関わってほしいと思い、今の選択をした。同級生をはじめ支援学級や加配の先生、校長先生などたくさんの人が、学校生活を支えてくれていることが心強い。「ゆっくりで当たり前くらいの感覚で、気を張らずに見守っていきたい」と愛梨さんは、前を向く。

(嶋岡すみれ)