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小さな双子ともう一人の「月誕生日」 闘病しながらの出産「自分を責めずに、ゆっくりと」〈手のひらの命・低出生体重児の今〉


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右から真栄田淳子さん、乙帆さん、義紀さん、朋希さん=9月、名護市

 「小さく産んでしまったと、自分を責めないで。生まれてきてくれた子どもたちとゆっくり前に進んでほしい」。真栄田淳子さん(48)=名護市=は、かつての自分と同じような思いを抱いているであろう母親たちに向けて語る。そしてこう付け加えた。「私もあの時、誰かにそう言ってほしかったんだと思う」

 2006年4月。淳子さんは双子の長男・朋希さんを516グラムで、長女・乙帆(いつほ)さんを445グラムで出産した。朋希さんは出生後すぐに息が止まった。呼吸を促すため、医師が小さな身体をたたく音が手術室に響いた。「ごめん。ごめんね」。申し訳なさに苛(さいな)まれた。だがそれだけ小さい状態で産まざるを得ないほど、淳子さんの身体は限界だった。

 淳子さんは16歳でさまざまな臓器に炎症や障害を起こす自己免疫疾患「全身性エリテマトーデス」と診断され、29歳で腎移植をした。その2年後に妊娠。おなかには3つの命が宿っていた。

 医師からは腎移植後の多胎妊娠はリスクが高いため、一人だけ産むことを勧められた。だが「絶対にきょうだいは必要」と双子で産むことを決め、減胎手術を受けて、泣く泣く一人を諦めた。

 その後腎機能の数値が見る見るうちに悪くなり、子宮頸管も短くなっていったことから、妊娠24週4日で出産。「自分がこんな身体じゃなければ」と責めた。

生後4カ月ごろの乙帆さん(右)と朋希さん(提供)

 医師に「2人の命が長くは持たない可能性もある」と告げられた。初めて2人を見た夫の義紀さん(50)は「管がいっぱいで痛々しくて、うれしいという感情だけではない複雑な心境だった」と語る。淳子さんと義紀さんは少しでも生命力がつくようにと、すぐに2人に名前を付けた。

 その後の成長の経過は差があった。朋希さんが約6カ月で退院できた一方で、乙帆さんの入院は約1年3カ月に及んだ。朋希さんは小学校に入るころには同級生と同じくらいまで成長していたが、当時の乙帆さんの知的な発達のレベルは2~3歳ほど。6歳で知的障がい者が持つ「療育手帳」を取得した。手帳を持つことで受けられる福祉サービスも多く、生きやすくなるのではないかと期待を込めた。

 小学校ではいろいろな子どもと過ごしてほしいと考え、障がいのある子が通常学級に在籍しながら、放課後や授業時間に障がいに応じた指導を受けられる「通級」の形を選んだ。加配の教員や教頭などを始めとして、乙帆さんのペースで学校生活を送れるよう手厚いサポートを受けた。

 いつかは朋希さんと同じように、乙帆さんの成長が追いつくだろうという期待もあった。淳子さんは「朋希が大丈夫だったから、乙帆も追いつくっていう変な自信があった。しんどい部分は見ないふりをしていたところがある」と当時の胸中を吐露する。だが次第に学校での困り事が増え「乙帆なりの成長をさせた方がいいんじゃないか」(義紀さん)と5年生から特別支援学級に通うことを決めた。中学校は特別支援学校に進学した。

 現在2人は高校1年生。朋希さんはオンラインゲーム、乙帆さんはユーチューブで動画を見るのが大好きで、時には2人で留守番をしながら家事をしてくれることもあるという。

 家族にとって、一番大切な日がある。朋希さんと乙帆さんを産むために諦めた、もう一人の子の命が消えた1月19日。毎月19日には「月誕生日」を家族で祝う。名前は「藍(あおい)」と名付けた。淳子さんと義紀さんは「藍のおかげで2人は生まれたんだよ」と何度も子どもたちに言い聞かせてきた。

 藍さんをはじめ、これまでたくさんの人に助けられてきて、今がある。淳子さんは「朋希と乙帆のペースでやりたいことを見つけて、自分を大切にしてこれからの道を歩んでほしい」と成長を願う。

(嶋岡すみれ)