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夢の渡航、続く悪路 新城ソヨ子さん、医療ぜい弱、県人の出産を支え<埋もれた沖縄移民史 ボリビアの大地で>1


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1956年、馬に乗ってお産の介助に向かう新城ソヨ子さん(本人提供)

 「もう産まれるから早く来て」。1956年2月、ボリビアのパロメティーヤに着いた翌日、新城ソヨ子さん(86)=南風原町=にお産を介助してほしいと県系人から急な呼び出しがあった。「やったこともないのに」と新城さんが断っても「誰もいないから」の一点張り。沖縄を出る時にもらった道具を使い、赤子を取り上げた。当時、移住地に病院はなく、自宅での出産がほとんど。多忙な日々の始まりだった。

 旧具志頭村(現八重瀬町)に生まれ、高校卒業後、1年半ほど助産婦に付いて仕事を見て覚えた。ある日、親から「結婚を決めてあるからボリビアに行きなさい」と告げられた。先にボリビアに行っていた、小中高の同級生の新城安誠さん(享年83、2017年死去)の呼び寄せ、いわゆる「花嫁移民」だった。親には逆らえない時代。不安もあったが「大きな船に乗って大陸に行ってみたい」、そんな夢も膨らんだ。

ボリビアでのお産介助の経験を語る新城ソヨ子さん=7月、南風原町

 渡航前、指導を受けた助産婦から、へその緒を切るはさみと絹糸などを持たされた。しかし「ボリビアでは助産婦の仕事はやらない」。そう決めていた。昼夜を問わない呼び出しなど大変な仕事だと分かっていたからだ。

 思いとは裏腹に、到着翌日のお産が順調にいったことを機に、次々に呼ばれた。医療体制はぜい弱で、断ることはできなかった。多い時には数日に1回。移動は馬で、悪路を遠い時には8キロ先の家に向かった。帰りは疲れ、馬の上でうたた寝しながら戻った。

 赤ちゃんの発熱で呼ばれたこともあった。薬や注射がなく、目に付いたのはバナナの葉。とっさに赤ちゃんを裸にし、葉を敷いて寝かせ、上にもかぶせた。熱は翌日、きれいに下がっていた。関わった子どもを誰も亡くすことなく、医療資源の不足を機転や工夫で乗り越えた。「若さからか、不思議と怖さはなかった。窮地の時も、ひらめきみたいな解決策が出てきて助けられた。神様に守られていたと思う」

 その後できた診療所で働いたが、1968年の洪水を機にブラジルに転住し、露天商で生計を立て、この間、4人の子どもを産み育て72年に家族で沖縄に戻った。

 パーラーや八百屋をするなど「本当に働いたよ」と笑って振り返る。予期せぬ事態に直面しながらも受け入れ、しなやかに生き抜いてきた。現在のコロニアオキナワの写真を「こんなに発展しているの」と食い入るように、懐かしそうに眺めた。
 (中村万里子)


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 沖縄ボリビア協会が沖縄へ戻った元ボリビア移民の聞き取りに取り組んでいる。戦後の琉球政府の計画移民は、沖縄を占領した米国政府の意図もあって進められ、移民たちは過酷な環境の中、十分な支援を受けられず、多くが転住や帰国した。第7回世界のウチナーンチュ大会を前に、その体験をたどる。