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裕福な生活に憧れて 貧しさ抜け出せず帰沖 屋宜ふみ子さん<埋もれた沖縄移民史 ボリビアの大地で>2


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1974年、第2コロニアの自宅前で。屋宜ふみ子さん(中央)と夫の盛心さん(左)、4人の子どもたちと(本人提供)

 「土地がもらえて裕福に暮らせる」。1961年、屋宜ふみ子さん(90)=恩納村=は、琉球政府の移民訓練センターで職員からの言葉に心躍らせた。一家族当たり50ヘクタールの土地が配分されることになっていた。米国と琉球政府を挙げて進められた計画移民。屋宜さんも、苦しい生活を抜け出せると思っていた。しかし待ち受けていたのは、自力での過酷な開墾と厳しい暮らしだった。

 貧しい暮らしの始まりは沖縄戦。母や弟、妹たちと避難した山に食料はなく、ソテツで飢えをしのいだ。父は防衛隊で戦死した。戦後、母は豚やミカンを買い付けて売り、子どもたちを育てた。結婚後は夫婦で軍作業に行き、小さな畑で食べる野菜を育てた。日々をつなぐ暮らし。50ヘクタールの土地がもらえるボリビア移住は「憧れだった」。

 沖縄を占領統治していた米国は、沖縄の人々の苦しさを把握していた。移民を進言した米スタンフォード大のティグナー博士の報告書には「沖縄の人々は伝統的に農民で、土地の所有権は彼らにとって人生における最も大切な願望の一つである」と記されている。戦争や米軍の占領で貧困に突き落とされた沖縄の人々は“移民ブーム”に沸いた。一方、米国にとっては、沖縄の占領統治にかける支出を減らし、ボリビアの共産主義化を防ぐための国策であった。

 屋宜さんは61年4月、第12次移民団として第2コロニアに入った。もらったのはわずかなお金とジャングルの土地。現地の人を雇うお金はなかった。開墾は手作業。夫婦2人で大木を切り倒し、焼いた。居住環境も悪く、ヤシの葉の家は雨漏りし、「想像以上に住みにくい所だった」。きれいな飲み水はなく、沼にたまった濁り水を飲む生活が7、8年続いた。

ボリビアへの移民体験を語る屋宜ふみ子さん=恩納村

 切り開いた畑でパパイアやユカ(キャッサバ芋)などを育て、卵や鶏を売る自給自足の生活が続いた。「元々お金がある人は裕福、ない人は本当に貧乏のまま」。屋宜さんが貧しさから抜け出すことは難しかった。男の子2人を出産したが、1人は難産で、産気づいてから10キロ以上離れた診療所に馬車で向かった時の怖さは今も消えない。

 73年に沖縄から親がボリビアまで生活ぶりを見に来た。「こんな生活だったら駄目」。そう促され、15年間の生活にピリオドを打ち、76年に沖縄に戻った。ホテルの厨房(ちゅうぼう)で働いた後、今は穏やかに長男の盛弘さん(62)家族と暮らす。憧れが一転、苦汁をなめたが、それも前向きに捉える。「(琉球政府が)良いことばっかり言うから、だまされて行ったようなものだ」としつつ、「後悔していないですよ。良い勉強になったと思っている」。そう言い切る。 (中村万里子)