【日/En/Es】侵略地で敗戦、過酷な逃避行~県系人の歩み・満洲国<海を越え、つながる輪>


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空襲を受けたダバオ市内=「ダバオ懐かしの写真集」(1988年発行)より(沖縄県ダバオ会提供)

 まっちょーたんどー!今月30日から11月3日の日程で第7回世界のウチナーンチュ大会が行われます。新天地を夢見て世界に羽ばたいたウチナーンチュやその子孫が故郷沖縄に帰ってきます。小中学生新聞にこれまで掲載してきた連載「海を越え、つながる輪」の中から、県系人の歩みと現地で活躍するステキな先輩を紹介します!

[English]Matcho-tando! The 7th Worldwide Uchinanchu Festival will be held from the 30th of this month to the 3rd of November. Uchinanchu and their descendants who dreamed of a new land and spread their wings to the world will return to their hometown Okinawa. From the series of articles in the elementary and junior high school newspapers, "Crossing the Sea, Connecting Circles," we introduce the progress of Uchinanchu and their wonderful seniors who are active in their hometowns!

[Espanol]¡Machotando! Los VII Juegos Mundiales de Uchinanchu se celebrarán del 30 de este mes al 3 de noviembre. Uchinanchu y sus descendientes, que soñaban con un nuevo mundo, volverán a su ciudad natal, Okinawa. A partir de la serie "Cruzando el mar, enlazando el círculo" en el periódico de la escuela primaria y secundaria, presentamos el progreso de Uchinanchu y sus maravillosos mayores que son activos en sus ciudades de origen.

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コロナ禍で3年ぶりにダバオの塔で行われた慰霊祭。弔辞を述べる沖縄ダバオ会の山入端嘉弘会長=2022年4月26日、糸満市の平和祈念公園

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 沖縄県人で早くから「満洲国」と関わりを持ったのは、満鉄への就職や進学のために渡った自由移民でした。彼らは都市部で暮らし、第2次世界大戦前には約3000人いたとされています。1930年代初頭、沖縄は南洋群島など南方への移民の拠点とされており、満州への農業移民から外されていました。37年、沖縄からも満州に移民を送ることを決定。39年に県は「3万戸・15万人の分村計画」を策定しました。

 最初の農業移民は、38年4月に移住した、16~19歳の満蒙開拓青少年義勇隊51人でした。39年には九州6県混成団に男性20人が参加します。40年には、奄美大島との混成団と、今帰仁、南風原、恩納、美里からそれぞれ分村し入植。43年に真壁・浦添・知念が青雲開拓団として、44年には越来開拓団が海を渡りました。

 冬はマイナス30度になる満州では4~9月が農繁期。広大で肥沃な大地でトウモロコシ、大豆、米、ジャガイモなどを栽培しました。当初男性だけだった開拓団も、妻子の呼び寄せや、一時帰国して結婚した女性を連れてくるなどして家族が増えていきます。現地人と良好な関係を築く開拓団もありました。

  44年ごろから男性が現地召集され、45年8月には入植地は女性と子どもばかりになりました。8月15日の敗戦で「満洲国」は崩壊。残された開拓団には、妊婦や乳幼児を抱える母親も多く、都市部へ逃げる途中で多くの子どもが命を落としました。都市部の収容所でも飢えや疫病で多数が犠牲となりました。

 46年、沖縄への引き揚げが始まります。満州の沖縄出身の農業移民は家族を含めて約2600人。そのうち980人が亡くなり、帰国できたのは約1400人でした。着の身着のままで着いた沖縄で見たのは米軍に強制接収された故郷の姿。「満州で中国人に同じことをしてしまった」と苦悩する人も多くいたそうです。

 


 

北京天安門広場で母・和子さん(左)と祖母・昌子さん(右)と写る佐藤未雲さん=1977年3月

<ステキな先輩!>中国との懸け橋に/黒竜江省出身・県系2世 佐藤未雲さん(50)

                                                                  English   Espnol

 那覇市天久にあるスペースチャイナ外語学院理事長の佐藤未雲さんは黒竜江省出身。沖縄市出身の母・和子さんは、満州に取り残された残留邦人でした。未雲さんは「中国と日本の架け橋になってほしいという母の願いに後押しされここまできた」と話します。

 和子さんきょうだいは母・昌子さんに連れられ、徴兵された父を追い満州に渡りました。父に会えぬまま敗戦の混乱で姉と弟は亡くなり、和子さん親子は中国人男性に保護されました。昌子さんはその男性と再婚。和子さんもチチハルで結婚し、4人の子どもに恵まれました。「死ぬまでに沖縄に戻りたい」と熱望する和子さんのために、1991年9月、家族で沖縄に移住します。当時、和子さん52歳、未雲さんは20歳。「地元では日本の鬼の子と言われ続けていたので、沖縄行きはうれしかった。高校の友人には通訳の仕事がしたいと話していた」と振り返ります。

現在の佐藤未雲さん

  沖縄での生活は苦しく、未雲さんと姉がアルバイトで家計を支えました。日本語辞典をぼろぼろになるまで読み込み、独学で日本語を習得。一念発起し24歳で語学学校を開きます。25歳で1年間北京外国語大学に国費留学し同時通訳の技術を磨きました。今では中国語教室、中国ビジネスの企画や通訳・翻訳業などに携わります。未雲さんは、波瀾万丈の半生を振り返り「学んだこと、人脈は何一つ無駄にならない」と力を込めます。

 今後も人材育成に力を入れるという未雲さん。「夢は未来の指針となる。夢を諦めずに追い求めてほしい」と若者にエールを送りました。

(2022年8月7日付りゅうPON!掲載)


 

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