戦前、貧しかった沖縄から新天地を夢見て、たくさんの人々が移民として海外に渡りました。彼らは厳しい労働や自然環境に耐え、偏見や差別を乗り越えて移住先に根ざしてきました。それから100年余り。ウチナーンチュの血をひく県系人は今や42万人に上ると言われています。世界中から県系人が沖縄に帰ってくる「ウチナーンチュ大会」では、ウチナーンチュ同士の絆を深め、沖縄への思いを新たにします。県系移民の歩みや沖縄との関わりを、りゅうちゃんと勉強家のシリシリーさんが解説します。
(記事:熊谷樹、図とイラスト:上原明子)
※小中学生新聞りゅうPONを再編集したものです。
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貧しい沖縄支えた移民
[りゅうちゃん(以下りゅう)]沖縄にルーツのある人が世界中に42万人もいるって驚き。なんでそんなにいりゅのかな?
[シリシリーさん(以下シリ)]明治から昭和初期の沖縄はとても貧しくて、食べるものにも困るような状況だったんだ。県内では働く場所もなかったから県外・海外で働いてお金を稼ごうという「移民事業」が進められたわけさ。沖縄から初めての移民は、1899年にハワイに向かった27人。移民のアイデアを出したのは當山久三っていう人で「移民の父」と呼ばれているよー。
[りゅう]確かに移民といえばハワイとかブラジルのイメージがありゅよ。他にどこに移民したの?
[シリ]アルゼンチンやペルー、ボリビア、メキシコなどの中南米、北米、フィリピンなどの東南アジアにもたくさんの県民が渡ったよ。戦前、日本の支配下にあった南洋群島には5万3200人の県民が移住して、「もう一つの沖縄」みたいな状況だったわけさー。
[りゅう]そんなにたくさんの国に移住したんだ!
[シリ]海外だけじゃなくて、国内の工業地帯にもたくさんの県民が出稼ぎに行ったわけよ。海外移民は男性や家族での移民が多かったけど、国内出稼ぎは結婚前の若い女性が中心で、紡績業に従事したんだ。戦前、沖縄から海外に渡った人が7万5千人、県外に出稼ぎに行った人が延べ15万人に上ったんだ。
[りゅう]移民先ではどんな暮らしをしていたの?
厳しい労働環境で稼いで送金
[シリ]豊かな暮らしを夢見て沖縄から出たけど、想像以上の厳しい労働環境に苦労したらしいよ。ジャングルを切り開くところから生活を始めた人もいたんだ。移住先での仕事は、ハワイや南洋群島ではサトウキビ栽培、ブラジルではコーヒー栽培、フィリピンではマニラ麻栽培、アルゼンチンでは洗濯業や野菜の栽培と、国によってさまざまだったんだって。
[シリ]どの地域でも移住した1世の人たちはとても苦労して仕事をしたんだ。そして稼いだお金を沖縄に送ったわけさー。貧しかった沖縄は移民からの送金で本当に助けられていたんだ。実際、1929年の沖縄県の歳入に占める移民からの送金は、なんと66.4%にも達したんだって!
30年代も県歳入の3割が移民からの送金だったんだ。
[りゅう]し、信じられない額だりゅう~。
苦難乗り越え 次代につなぐ
[シリ]太平洋戦争で沖縄はたくさんの人が亡くなったけど、海外に移住した人たちもとても苦労したんだよ。アメリカやカナダ、南米では財産を没収されて強制収容所に入れられた人や、フィリピンや南洋群島では激しい地上戦に巻き込まれた人たちもたくさんいたんだ。
自分たちも戦争で多くのものを失ったのに、戦後、沖縄が焼け野原になったと聞いた移住者たちは衣類や食料を送ってくれて沖縄復興に大きな役割を果たしてくれたわけよ。
[りゅう]うお~。移民のみなさんに感謝りゅう~~。
[シリ]移住者たちは沖縄を離れてもみんな、沖縄の言葉や三線、そしてゆいまーるの心を忘れなかったさー。沖縄人のいるところ、三線の音色と踊りがあって、県民同士が集まって県人会を作って助け合ったんだよ。今では移住した1世の孫やひ孫の時代。現地社会でたくさんの県系人が活躍しているんだ。
1990年には第1回世界のウチナーンチュ大会が開催されて約2400人が沖縄を訪れたんだ。それから32年、コロナで1年延期されたけど、今月末にはいよいよ第7回大会が行われるわけさー。
[りゅう]楽しみりゅう~。世界中からウチナーンチュが集まるんだよね。
[シリ]そう!世界に広がるウチナーンチュの輪を実感できるまたとない機会だよ。これからもこのつながりを大切に、交流を続けていきたいよね~。
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