【うるま】沖縄県うるま市津堅島訓練場水域でのパラシュート降下訓練について、これまで反対の立場だった中村正人うるま市長が翻意した。27日、その方針転換の理由を問いただそうとうるま市島ぐるみ会議のメンバーらが市長と面談した。その中には、かつて米軍のパラシュート物資投下訓練で友人を亡くした女性がいた。「事故が起きてからでは遅い」。訓練の恐ろしさを女性は声を震わせながら訴えた。
中村市長との面談で、読谷村出身の東(あずま)智子さん(69)=うるま市=はひときわ声を荒らげた。1965年6月11日、旧読谷飛行場で行われていた米軍のパラシュート物資投下訓練で、重さ2トン半のトレーラーが民家のそばに落下し、小学5年生の女児(11)=当時=が圧死した事件。女児は東さんの友人だった。「亡くなったのは私だったかもしれなかった」と声を震わせた。
ベトナム戦争の激化に伴い、当時は旧読谷飛行場のパラシュート降下訓練などが日常茶飯事だった。「バタンッ」という音とともに、東さんの自宅玄関前に米兵が降りたこともあった。パラシュートは屋根に引っかかったり、近隣の畑などに米兵が降り立ったりすることも多く、「普通のことだった」と振り返る。
その認識が変わったのは6月11日の事故だった。6年生の東さんは夕方、自宅でけたたましいサイレン音を聞いた。大人たちと一緒に現場に駆け付けると、憲兵隊や住民がトレーラーに集まり大騒ぎしていた。
女児の姿はすでになかった。現場は自宅近くの遊び場で、女児とは石蹴りなどで遊んだこともあった。「大変な所に住んでいる」と恐怖を抱いた。
当時、父から「怖くてもパラシュートに向かって走れ」と教えられた。目を離すとどこに落ちるかわからないという意味だったと解釈している。「空から降ってくるパラシュートは風でなびく。事故は必ず起こる。起きてからの抗議では遅い」と語気を強めた。
(古川峻)