沖縄に黒糖もたらした偉人・儀間真常 サツマイモや木綿の普及にも尽力


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近世琉球の産業基礎を築く

 儀間真常は黒糖の生産方法を学ばせ、琉球国の黒糖生産を一挙に高めただけでなく、甘藷(かんしょ)(唐芋(からいも)、サツマイモ)の栽培普及にも尽力し、木綿産業を興すなど近世琉球における産業の基礎を築いた。

 1557年、真和志間切儀間村(現那覇市山下町)に生まれた真常は、当時としては珍しく三男の身で家を継いだ。1593年に儀間村の地頭職に就き、才能を認められて外国との交易船の船長も務めるようになる。

 1605年に野国総管が中国から甘藷を持ち帰ると、王府の役人としてその栽培法を確立し、琉球全土に普及させた。甘藷は琉球の人々を飢餓から救い、人口を増やした。後に薩摩藩経由で日本にも伝わり「サツマイモ」として広がった。

 薩摩侵攻直後の1609年5月、国王尚寧が捕虜となって鹿児島に連行された際に随行。尚寧一行は江戸に向かうが、真常は鹿児島にとどまり、木綿産業を調査。琉球に帰る際に木綿の種を持ち帰って栽培、木綿織りを始める。それを女性たちに学ばせることで新たな雇用を生み出し、木綿の着物は琉球の衣服となった。

 1644年10月14日に没した儀間真常の墓は、首里崎山町にある。那覇市奥武山の世持神社には、琉球に繁栄をもたらした「産業の恩人」として蔡温、野国総管とともにまつられている。

(玉城江梨子)