受け取った平和への思い、もっと先へ 中山きくさんを悼む 北上田源・沖縄平和ネットワーク事務局長


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沖縄戦当時の第一野戦病院手術場壕内の悲惨な状況を語る中山きくさん(右)=2016年6月4日、八重瀬町の八重瀬岳

 平和ガイドとして活動する中で、何度も中山さんが戦争体験の講話をされる場に同席してきた。一時期から、中山さんは講演の最初に「私は三本足なんですけど…」と話し始められていた。年齢を重ねて足腰が弱くなり、つえを使うようになったことを意味する、自嘲気味の表現だった。それでも、講演の最中はつえを脇に置いて演壇まで歩き、自分の足で長時間立ったまま、生徒たちの方を真っすぐ見つめて話をされていた。

 2000年代後半からは基地問題に関する大会でも発言されてきた。陣地構築などに駆り出された自らの体験と重ね合わせ、沖縄への基地負担の押し付けに明確に反対の声を上げられた。中山さんがある基地問題の集会で登壇される前日、ホテルでの体験講話が長引いて帰りが遅くなってしまった。同席していた私が、翌日のことを心配して声をかけると、「できることはやらないとね」とつぶやきながら帰られていった。高齢になってもさまざまな場に立ち続け、話し続けることの負担も大きかっただろう。それでも、そんな中山さんの姿からは、平和のために何をすべきなのかを学ばせてもらった。

 中山さんの原点は、間違いなく自らの戦争体験にあった。訃報を聞いてすぐに思い出したのは、一緒に戦跡を訪れた時の中山さんの表情だった。母校である二高女跡地にある松山公園では、楽しそうに吹奏楽部だった時の話をされていた。亡くなった白梅学徒隊・二高女の同窓生が祭られた白梅の塔の前では、友達に語り掛けるように口元が小さく動いていた。

 中でも忘れられないのは、中山さんが沖縄戦の際に動員され、看護活動をしていた八重瀬野戦病院壕跡(上の壕)を訪れる時の表情だ。もちろん、その場所での自らの壮絶な戦争体験を思い出して話すこともつらかっただろう。それだけではなく入壕が制限され、平和学習のために訪れる人が減っていたことを気にかけられていた。中山さんは「(入壕できないため)壕での暗闇体験ができないと、ここは(平和学習に)使ってもらえないでしょうかね」と気にしていた。その声に応えるべく、同地を平和学習で活用するための取り組みも進めようとしていたが、不十分なままになっている。中山さんに成果を伝えられないのが心残りでならない。

 中山さんの表情や声、そして平和のために歩む姿は私の脳裏に刻み込まれている。そして、私と同じように中山さんの平和への思いを受け取ってきた人は多くいるはずだ。中山さんが歩き続けてこられた道は、今度は私たちがもっと先まで歩いていきます。中山さん、長年の間本当にありがとうございました。