【大江健三郎さんと沖縄】「沖縄ノート」「集団自決」…大江さんが問い続けたこと 辺野古新基地反対、市民運動にエール


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
辺野古の海上を視察した後、米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れる大江健三郎さん=2015年6月20日、名護市辺野古

 戦後の日本を代表する文学者で、ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが3日午前、死去した。88歳。大江さんは長年の創作活動を通じて戦後民主主義を問い、沖縄を見つめた。米軍基地の重圧に苦しむ沖縄の姿を通し、日本や日本人とは何なのか、その責任を問い続けた。

 大江さんが初めて沖縄を訪れたのは1965年。大田昌秀元県知事(当時は琉球大助教授)、長崎での被爆体験がある真喜志津留子さんらと対話した。この時、「沖縄の人たちが重荷を背負っていていられることをつねに考えていなければならぬ」と決意するメモ書きを残した。

 復帰運動に奔走した、東京沖縄県人会事務局長の古堅宗憲氏との出会いを通じ、沖縄への思いを一層深くした。70年に「沖縄ノート」(岩波新書)を出版した。

 2005年、座間味島、渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)における日本軍の責任を論じた沖縄ノートの記述を巡り、大江さんと版元の岩波書店が座間味島の元戦隊長らから提訴された。大江さんは法廷で軍の責任を証言。11年に最高裁は原告の上告を退け、大江さん側の勝訴が確定した。

 大江さんは04年、「九条の会」設立に参加。14年の法政大のシンポジウムで、集団的自衛権行使で沖縄の被害の懸念に触れ「日本の憲法を守り続けよう」と訴えた。

 12年にはオスプレイ配備に反対する県民大会を前に本紙のインタビューに応じ、「沖縄の市民デモには米国を説得する力がある。その主張を明確に本土にも発信してほしい」とエールを送った。

 ジャーナリストの新川明さんとも1965年から親交があり、新川さんの提起する沖縄の構造的差別や植民地主義への問題意識に共感を寄せた。12年、琉球新報のインタビューで「(日本復帰は)再併合と考えれば、『沖縄に対する構造的差別を生み続ける植民地主義の根源が見えてくる』という(新川)氏の根本的指摘は正しい」と述べた。

 2015年6月に辺野古新基地建設の現場を訪れ、11月には戦後70年企画「大江健三郎講演会~沖縄から平和、民主主義を問う~」(琉球新報社主催、岩波書店共催)で講演した。辺野古新基地建設について「狭い沖縄に核兵器の基地があることが本質的問題。移設しても根本的には何の解決にもならない」と政府の新基地建設強行を批判。若者に「民主主義をはっきりと主張する世代がいることが希望だ」と述べた。

(中村万里子)