原野に遺骨、日本兵か ガマフヤー具志堅さん発見 戦没者遺族いまだ亡き父探す人も 未開発緑地帯「保全を」 沖縄・糸満


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社
見つかった頭蓋骨について説明する具志堅隆松さん(左)と田村広志さん=10日、糸満市束里

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんが10日、糸満市束里の原野で遺骨の破片を見つけた。警察や県遺骨収集情報センターも駆け付けて確認した。具志堅さんは「未開発緑地帯には、遺骨がある。重機で掘削してしまったら分からなくなる」と話し、沖縄戦の激戦地だった南部の未開発緑地帯を県有地化し、遺骨の保全を優先してほしいと訴える。

 遺骨は、束里の原野の隆起した石灰岩の下にあった。頭蓋骨の一部と目の周辺の骨、肩甲骨の一部などが見つかった。そばには日本軍の薬きょうと弾頭、革靴の底の部分などもあったことから、日本兵の遺骨の可能性が高いとみられる。

 この日は千葉県から訪れた、沖縄戦戦没者遺族の田村広志(ひろし)さん(81)も同行した。父親の要祐(ようすけ)さんは千葉県銚子市で1944年に召集。妻子5人を残し、沖縄戦で戦死した。35歳。戦死公報には「1945年6月20日喜屋武」と記され、遺骨は戻らなかった。

 沖縄戦から3年たって行われた葬式。小学生だった田村さんは骨箱を持って歩き、その際、骨箱を落としてしまった。「ぺらっと1枚の紙が落ちた」。その時の衝撃は今も忘れられない。

 70年ごろ、田村さんは生き延びた父親の戦友に、その最後を尋ねた。友人の話によると、崖下で負傷した友人を背負い、父親は崖を登ろうとしたものの、「負傷兵は置いていけ」という部隊命令で断念したという。父親は部隊と行動し、置いていかれた友人は、米軍の捕虜になって助かった。

 田村さんは70歳を過ぎてから沖縄で父親の遺骨を探し始め、10回を数える。新型コロナの影響で4年ぶりの遺骨探しとなった。父親の召集当時、2歳半だった田村さんに父親の記憶はない。束里で見つかった遺骨を前に「78年経っても、まだ収集されない遺骨があるんですね。親父の遺骨もできれば見つけてあげたい」と思いを強めた。

 田村さんは、辺野古新基地建設や南西諸島の軍備強化で新たな戦争への危機感が高まる状況について、「なんでヤマトが沖縄をこんなに犠牲にするのか。ひどすぎるんじゃないか」と静かに、言葉に怒りを込める。遺骨が埋まっている土地の土砂を辺野古新基地建設に使う計画にも反対する。

 具志堅さんが「南部の土地を、ふるさと納税を財源に県有地にしてほしい、と県や県議会に要望しているんですよ。私たちの代で遺骨収集は終わらない。南部を沖縄から世界に哀悼の意を表し、平和を発信する場所にしてほしい」と説明すると、「ぜひ協力したい」と賛意を示した。田村さんは「日本全体として遺骨を忘れようとする風潮がある。今のような情勢だからこそ、残すべきだと思う」と語り、2人で遺骨に向かい、手を合わせた。 (中村万里子)