77年ぶりに訪問「胸のつかえが取れた」 「集団自決」の地で家族の名前呼び、むせび泣きも きょう慰霊祭 沖縄・渡嘉敷


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初めて訪れた「集団自決跡地」の慰霊碑の前に立つ金城鶴子さん=3月7日、渡嘉敷村

 【渡嘉敷】1945年3月28日、渡嘉敷島の北山(にしやま)(標高約200メートル)で起きた住民の「集団自決」(強制集団死)で、両親と姉2人を亡くした渡嘉敷村阿波連の金城鶴子さん(94)が戦後すぐに遺骨収集のため訪れて以来、77年ぶりに現場に足を運んだ。慰霊碑の前で家族の名を呼びむせび泣いたが、しばらくすると「胸のつかえが取れ、宝物を得たようで晴れ晴れした」と穏やかな表情を浮かべた。

 金城さん一家は3月23日の米軍の空襲で阿波連の大見謝山の壕に避難していたが、駐在巡査から「軍が北山に集まれと言っている」と伝えられ、大雨の降りしきる中、日本軍本部壕のある北山へ移動した。集まった数百人の住民が「天皇陛下万歳」と叫び「集団自決」が始まった。金城さんの家族全員も追い込まれた。

 金城さんは奇跡的に生き残り、7カ月のおいを背負い逃げる途中に米軍通訳に説得され捕虜となった。終戦から半年後に阿波連に戻った。渡嘉敷村では、戦後すぐに北山の現場の遺骨収集が始まった。金城さんが1年後に青年団と訪れると、現場は爆破されていて、家族の遺骨は見つからなかった。それ以来、足を運ぶことはなかったという。

 渡嘉敷村は51年に慰霊碑「白玉之塔」を建立し、強制集団死のあった3月28日に初の戦没者合同慰霊祭を行い、同日を村の「慰霊の日」と定めた。

 62年6月、北山に米軍ホーク・ミサイル基地が建設されたため、白玉之塔は渡嘉敷港を見下ろす標高約100メートルの儀津山(ぎずやま)に移設を余儀なくされた。村は93年3月、島の悲惨な歴史を記録し、恒久平和を祈念するため、旧白玉之塔跡地に「集団自決跡地」の慰霊碑を建立した。金城さんは28日の村主催の慰霊祭を前に、NHKの取材を受ける形で地元平和ガイドの案内で「集団自決跡地」を初めて訪れ、慰霊碑後方の谷間の現場を確認した。
(米田英明通信員)