<未来に伝える沖縄戦>逃げながら、馬小屋で出産 母、姉2人失い、妹を置いて 稲福チヨさん


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 中城村南上原で生まれた稲福チヨさん(87)=宜野湾市=は、9歳の頃に沖縄戦を体験し、家族と共に戦場をさまよいました。米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、一家で中城から南部の真壁村(現糸満市)へ逃げました。母親は妊娠中で、逃げる途中の馬小屋で妹を出産しました。戦争が終わって米軍に保護されるまでの間に母と2人の姉、そして生後間もない妹を戦場に置いてこざるを得なかった稲福さんの話を首里高校2年の新里桃花さん、知念陽香さんが聞きました。

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自身の体験を話す稲福チヨさん=4日、宜野湾市の自宅

 《稲福さんが9歳のとき、家族は避難を決め、南部方面へ移動していきます》

 祖父、祖母、父、母、姉2人に妹、弟の9人家族でした。米軍が迫っているという情報を聞いて、家族で避難することを決めます。私は津覇国民学校に通う小学生でした。一番上の姉が16歳、一番下の弟が3歳でした。

 母のおなかの中には赤ちゃんがいました。

 県外や北部に避難した人の中には助かった人も多くいたと聞きますが、島尻方面の状況は悪く、至る所に死体が転がっていました。

 身を隠す場所は少なく、亀甲墓の中には大勢の住民が身を潜めていました。父が中に入れてほしいと頼みましたが、もうこれ以上は入る場所がないと断られ、追い出されてしまいました。

 私たち家族は行き場を失って、ひたすらさまよっていました。途中で母が産気づき、馬小屋の中で妹を産みました。私はその場にはいなかったので、医療器具もなく助産師さんもいない環境での出産がどんなものだったかは想像することしかできません。妹が産まれてうれしかったかどうか、正直あまり覚えていません。抱っこしたこともなかったと思います。とてもそれどころではありませんでした。

※続きは4月12日付紙面をご覧ください。