米軍「普天間飛行場」、そもそもなぜ返還? ほかにも県内11施設が返還予定、なぜ沖縄の反発続くのか


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 1995年9月に発生した米海兵隊員による少女暴行事件を受け、超党派の沖縄県民総決起大会が開催され、8万5千人が参加した。大会では日米地位協定の見直しや基地の整理縮小を求める抗議決議が採択された。

 同事件を契機に、大田昌秀知事(当時)は米軍用地強制使用手続きの公告・縦覧の代理署名を拒否することを決断。沖縄の基地負担軽減を求める機運は復帰運動以来の高まりをみせた。

 この動きに慌てた日米両政府は沖縄の基地問題を協議する機関「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」(SACO)を設置した。橋本龍太郎首相(同)とモンデール駐日米大使は96年4月12日に記者会見し、米軍普天間飛行場を「向こう5年から7年にかけて」全面返還をすることで合意したと明らかにした。

 その上で嘉手納基地より南の11施設の返還も発表された。だが、返還が決まった11施設のうちの7施設は県内移設が前提だった。県民が望む基地負担軽減に逆行する形となり、今日までSACO合意の履行は一部のみで完遂してはいない。

 SACO合意の目玉とされた普天間飛行場の返還も、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沖へ基地機能を強化した上での移設計画となっていることから、県内の反発は根強い。しかし政府は県内世論を省みずに強権的に辺野古新基地建設を推進してきた。

 県民の分断も省みない政府の手法には依然として反対の世論は高い。シュワブ沖では軟弱地盤の問題が明るみに出るなどしており、普天間飛行場の返還は見通せない状況だ。 (梅田正覚)