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さらば「かっちゃん」 コザロックの巨頭が蛇を投げた時代【WEBプレミアム】


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎

 沖縄ロックのレジェンド的存在だった「ヒゲのかっちゃん」こと川満勝弘さんが4月20日、78歳で死去した。基地の街コザで、屈強な米兵らとぶつかり合うように育った独特のオキナワンロックは、かっちゃんの生きざまと不離一体でもあった。野太く音域の広い歌唱力だけでなく、過激なパフォーマンス、予測不能な行動で観客を魅了してきた。1964年に沖縄初のロックコンサートを開き、「沖縄ロック」を誕生させた一人でもある。関係者の証言も交えながら「ヒゲのかっちゃん」とコザの足跡を追った。

(島袋良太、中村万里子、小那覇安剛)

奇抜な風貌や過激なパフォーマンスとともに、多くの人に愛された「かっちゃん」こと川満勝弘さん

 ■宮古島からコザへ 沖縄で最初のロックコンサート開く

 かっちゃんと音楽の出合いは、小学校高学年の時に宮古島から移り住んできたコザ。当時のビジネスセンター(BC)通り、現在の中央パークアベニューそばに住んでいた。ラジオ放送や米兵相手の「Aサインバー」のジュークボックスから流れる米国の音楽を浴びながら育った。

 写真家でかっちゃんのパートナーの吉岡紀子さんによると、かっちゃんは宮古島でおじの家に預けられていたが、小学校でいじめに遭い、本島で出稼ぎしていた大好きな母を追ってコザに。「そしたらこうなっちゃった」という。

幼なじみで、共に「ウィスパーズ」を結成した喜屋武幸雄さん(右)とのツーショット

 この街で幼なじみになったのが、後にバンド「ウィスパーズ」を共に結成する「オユキ」こと喜屋武幸雄さんだった。大学進学や仕事で上京していた喜屋武さんや、後にウィスパーズでギターを演奏した外間勉さんに会うためかっちゃんはコザ高校を卒業後、上京した。大学でギタークラブに入った外間さんを「アメリカギターひちゅーんばー(ギターを弾くのか)。じゃあ見に行こう」と訪ねたところ、聴かされた演奏がかっこよく、この3人でバンドを結成することになった。

 かっちゃんはドラムの担当に。何もない当時は木の枝、扇風機の頭のカバー、雑誌などを使って練習したそうだ。バンドは15曲を作ったタイミングで故郷沖縄を訪ね、コンサートを開くことに。1964年に「ウィスパーズ」として、琉球新報ホールで沖縄で最初となるロックコンサートを開いた。沖縄ロックの「幕開け」だった。ただ、ウィスパーズは当時、ネクタイを締めたスタイルで演奏した。

コンディショングリーンのライブの様子。米兵らを盛り上げる=1970年代初頭、沖縄市コザのライブハウス(喜屋武幸雄さん提供)

 ■コザロックの二大巨頭、コンディショングリーンの伝説

 5年の活動を経てウィスパーズは解散。続いて「紫」と並ぶコザロックの「二大巨頭」と語り継がれた伝説のバンド「コンディション・グリーン」を結成する。

ベトナム戦争に入っていた当時、米兵たちは演奏に納得がいかないと、ステージに机や瓶を投げるほど荒れていた。一方で「明日戦場で死ぬかもしれない」という心境の彼らは、金遣いもすごかった。店にはドラム缶いっぱいのドル札が毎晩集まり、バンドのギャラも当時の銀行の初任給の4倍近くあったという。

 そんな米兵たちと対峙(たいじ)する中で、演奏する側もどんどん過激になっていった。かっちゃんはステージの上でヘビを振り回したり、鶏の首をへし折ったり、現在なら間違いなく批判が殺到するパフォーマンスもたくさんあった。

 喜屋武さんは「ベトナム戦争中、よく米兵とケンカになった。かっちゃんは暴れる米兵を1人で押さえつけた。ドラムを投げる。ヘビを投げる。アメリカ人をやっつける沖縄人はすごいということで、ヒーローのように人気が出た」と証言する。当時のかっちゃんは筋肉隆々でヒゲぼーぼー、見た目の迫力もすごかった。

かっちゃんこと川満勝弘さんのステージ映像を見ながら思い出を語るピースフルラブ・ロックフェスティバルの徳山義広プロデューサー

 そんな彼にコザの名物野外フェス「ピースフル・ラブロックフェスティバル」に出演オファーし続けてきたのが、イベントのプロデューサーでミュージックタウン音市場の元館長でもある徳山義広さん。徳山さんは「ベトナム戦争時の米兵は荒れていた。自分が死ぬ恐怖、人を殺してしまった罪悪感。彼らの精神状態もバランスが取れない中で、かっちゃんの狂ったパフォーマンスが彼らのいらだちをステージに飲み込み、ある意味で県民の盾になった」と評する。

「アムラー現象」が席巻していた時代に厚底ブーツとミニスカ姿でピースフルラブ・ロックフェスティバルに出演し、客席を沸かせる川満さん(DVD『沖縄ロックレジェンド・カッチャン』よりカット。同フェス実行委員会提供)

 1972年の日本復帰を経て、コザのライブハウスは少しずつ米兵相手から日本人客相手に移り変わっていく。一方で奇抜なパフォーマンスはかっちゃんの代名詞として定着した。「かっちゃん、今日は何をしでかすのか」。そんなファンがコザを訪れた。

ライブで演奏するコンディショングリーンの「かっちゃん」こと川満勝弘さん(右)=1970年代初頭、沖縄市コザのライブハウス(喜屋武幸雄さん提供)

 ■反骨―米兵にこびず、暴力団にひるまず 「ブラックリスト」入りで基地内でのライブ禁止に

 客である米兵や米軍にこびることはなかった。「ブロークンイングリッシュ」も得意だったが、普段はうちなーぐちを多用した。

 コンディショングリーンの2代目ギタリスト、サーミー仲宗根さんは20歳から5年間、ギターを務めた。かっちゃんに体を振り回されて頭から客席に突っ込んだことも。一番覚えているのは嘉手納基地内でのライブで、変圧器からコンセントを抜かれたあとに、直接挿されたためにアンプが爆発。怒ったかっちゃんが弁償するよう交渉したものの拒否され、客席にヘビを投げた〝事件〟だ。

  観客はパニックになり、銃を持って駆けつけた憲兵(MP)に演奏を中止させられ、基地を追い出された。「かっちゃんは米軍にも引かずに交渉していた」とサーミーさんは振り返る。そんなこんなで、コンディショングリーンは米軍の「ブラッリスト」にも載ってしまい、基地内でのライブはできなくなった。

「ロックの日」のイベントに再結成して登場したコンディショングリーン=2012年6月9日、

 コンディショングリーンの解散は、サーミーさんの脱退がきっかけだった。演奏していたライブハウスがクラブに代わり、キーボードを弾かされたため、かっちゃんに「やめる」と伝えた。かっちゃんは「そうか、サーミーがやめるんだったら解散だ」。国際通りの店で開いた解散ライブには大勢が押しかけた。

 サーミーさんは音楽を離れたが、15年後にかっちゃんに「ステージに上がれ」と引っ張り出されたことがきっかけで、音楽を再び始めた。「沖縄ロック界が世界に誇れる偉大な人物。あんなすごい人は、もう沖縄には生まれてこないでしょう」と別れを惜しんだ。

オキナワンロックへの貢献をねぎらう「生前葬」で熱唱するかっちゃん=2010年12月18日、沖縄市のミュージックタウン音市場

 反骨エピソードは他にも。バンド結成の初期に、米軍基地の近くのライブハウスで稼ぐと、暴力団にみかじめ料を要求されることもあった。だがかっちゃんは頑として払わなかった。ある時は「縄張り料払うくらいなら解散しよう」とメンバーで示し合わせ、演奏中に突然大げんかを始めてそのまま解散を「偽装」した。その後しばらくは基地内だけでライブをした。暴力団は「あったー、まーんかいんじゃが(あいつらはどこに行ったのか)」と言っていたそうだ。

 ちなみにかっちゃんは一度、みかじめ料を巡ってもめた暴力団員に突然蹴られ、失神したこともある。蹴られた直後「うりひゃー、とにかく警察に電話して。僕は中部病院にね」と病院を指定して失神したという。

ピースフルラブロックフェスティバルで、奇抜なステージを見せるかっちゃん=2014年、沖縄市野外ステージ

 ■見続けた「アメリカ」

 ベトナム戦争時からコザを拠点にステージに立ってきたかっちゃんは、街にいる米兵の変化も感じてきた。1995年9月の米兵による少女乱暴事件から1年余の96年。米軍基地の整理縮小を求める県民運動のうねりはまだ続いていた。かっちゃんは「なぜ県民が怒っているのか米兵全体に伝わっているわけではない。それに『(基地問題は)日本政府と米国政府のヘッドの話だ』と米兵は考えている」「最近はサラリーマンみたいな米兵もたくさんいる。(ベトナム戦争のころ)米兵は相手と実際に向き合って殺していた。『おれはおばあさんや子ども、ベトコンを何人も殺した』と。今の戦争はミサイルを飛ばし、相手を見ずに人を殺す。戦争の映像を見せても、『僕は悪くないよ。命令だから』。その違いは大きい」と語っていた。

名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前を訪れ、基地建設に反対する市民らを激励するかっちゃん=2014年11月27日

 かつての彼らの振る舞いに苦言を呈すこともあった。「もし第2次世界大戦で日本とイタリアとドイツが勝ったとして考えてごらんなさい。アメリカ人やイギリス人のグループが、日本の歌謡曲を額に汗を浮かべながら一生懸命演奏していたかもしれませんね。その時、選曲が古いとか、テクニックが下手だかとか思ったあなたは、ビール瓶とか灰皿、椅子などをステージに投げますか」。90年代に沖縄市市史編集室が資料集「ロックとコザ」の製作で聞き取りした時に、かっちゃんが問いかけた言葉だ。

 この中でかっちゃんは意気投合した米兵たちと交友を深めていることも語る一方、沖縄の人を見下すように振る舞う米兵への憤りも語っていた。

 ■変わりゆくコザの街 愛したのはオールディーズ

30年の歴史に幕を閉じたジャックナスティーのラストライブで、ステージに立つかっちゃん=2012年2月26日深夜、沖縄市ゲート通りのジャックナスティー

 基地の街の「最前線」でロックを続けたかっちゃん。晩年はオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」やルイ・アームストロングの「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」など、ゆったりした曲を好んで歌った。近しい人たちによると、少年時代にはロックよりブルースなどを聴いて育ち、ある意味で「回帰」していったのだという。

ピースフルラブ・ロックフェスティバルのステージでサメや魚をくわえて登場し、客席を沸かせる川満さん(DVD『沖縄ロックレジェンド・カッチャン』よりカット。同フェス実行委員会提供)

 2012年には約30年経営したコザゲート通りのライブハウス「ジャック・ナスティー」を閉店。音楽活動は少しずつ減っていった。一方、14年にはロック分野で初めて県文化功労者に選ばれ、BEGINの比嘉栄昇さんがプロデュースしたソロアルバムも発売した。比嘉さんは「ボーカリストに必要な全てを持っている人だった」とかっちゃんをしのんだ。カッチャンら沖縄ロックの創成期を支えた大物に続く中堅や若手ロックアーティストにとどまらず、さまざまな分野からその存在感の大きさを語る声が聞こえる。(了)

県文化功労賞に輝いたかっちゃん(右)が数々の曲を披露した祝賀パーティー=2014年12月19日、沖縄市中央
最後の出演となったピースフルラブ・ロックフェスティバルでピースサインをするかっちゃん=2022年7月9日、沖縄市(喜瀨守昭撮影)