沖縄戦戦没者の名前を刻む糸満市摩文仁の平和の礎に、今年は新たに365人の名が追加刻銘される。国籍や軍人、民間人を区別せず、沖縄戦や太平洋戦争などで亡くなった全ての人の名前を刻む礎。新たに刻銘が決まった戦没者の遺族らは「生きた証を残すことができる」「戦争がなければ、元気でいられたはずなのに」などと語り、平和への思いを新たにしている。
那覇市首里に住む知念榮一さん(84)は、沖縄戦当時、9歳だった姉米子さんの名前を平和の礎に刻むことができ、「とにかくよかった。もう寂しくないね」と涙を浮かべた。毎年慰霊の日には礎を訪れていたが、米子さんの名が刻まれていないことを申し訳なく思っていた。「姉がこの世に生まれた証しと沖縄戦で命を落としたことを礎に刻んであげなくては」と申請。刻銘決定の通知に、妻文子さん(82)と手を取り合い、泣いて喜んだ。
知念家は戦前、現在の那覇市首里鳥堀町で造り酒屋を営んでいた。9人きょうだいの大家族。だが、家族の写真や遺骨は残っていない。母は榮一さんを出産後に死去。幼かった榮一さんは両親の顔、そして米子さんの記憶もほとんど残っていないという。
唯一思い出せるのが、読書好きだった米子さんが読んでいる本を榮一さんが取ろうとして、けんかをしたという思い出だけ。
一家は空襲が激しくなる前に疎開しようと港に行ったが祖母が首里の家に戻ってしまい、船を下りた。その後は戦火を逃げ惑う中で家族はばらばらに。上の姉宮城政子さん(91)によると、米子さんは真嘉比辺りで焼夷弾の空襲に遭い、爆弾の破片が体を直撃してほぼ即死だったという。
5、6歳だった榮一さんは家族とはぐれ、1人戦地を逃げ惑った。道端で座り込んでいるところを通りすがりの人が手を引き、一緒に逃げることができた。戦後は孤児院で政子さんと再会。本土から沖縄に戻った兄と共に首里に戻った。「戦争は大嫌いだから、思い出すのもいやだから」と、榮一さんはこれまで自身の体験を話すことはほとんどなかった。
亡くなった父や祖母らの名は礎に刻まれたが、米子さんのことはずっと気がかりなまま日々の生活に追われた。5年ほど前に追加刻銘の申請を検討したが、榮一さんが病に倒れ入退院を繰り返している間に時間が過ぎていた。
昨年12月、熊本の叔母が持っていた知念家の戸籍謄本と政子さんの証言を基に県に申請。刻銘がかなった。
「清明祭や旧盆のたびに米子姉さんの魂がさまよっていないかと2人で話し泣いていた。これからは安らかに眠れるはず」と文子さん。夫妻は今年の慰霊の日、政子さんと共に、平和の礎を訪れる予定だ。
(座波幸代)