集落に広がる戦時色 池原盛憲さん(2)山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在も残る古堅国民学校の門柱=読谷村楚辺

 読谷村楚辺で暮らし、古堅国民学校に通っていた池原盛憲さん(88)=那覇市=の記憶では1943年ごろから村内でも戦時色が濃くなっていきます。「読谷村史」や「沖縄県史」によると北飛行場の建設が43年夏ごろに始まり、日本軍も駐屯するようになります。楚辺の集落には高射砲が据えられます。

 《昭和18年の後半ごろから集落の婦人会の方々が各戸を回って千人針の協力を求めた。防空頭巾の作り方も指導していた。

 さらに年末ごろ、大通りを日本の兵隊を乗せたトラックの隊列が煙をまいて通り過ぎていった。私たち子どもらは初めて見るトラックの後を追っかけたが速度が速く、途中であきらめた。その時の排ガスの臭いが鼻に付き、戦争の意識にもつながった。》

 子どもたちの心にも戦争がすり込まれていきます。

 《悪友の間では中国の蒋介石の悪口の歌が歌われていた。次第に戦争体制が敷かれていったように感じた。》

 池原さんは今も歌を覚えています。しまくとぅばを交え、下品な言葉で蒋介石をばかにする歌でした。

 「日本は『鬼畜米英』と戦い、蒋介石の中国とも戦っていた時代です。この卑猥(ひわい)な歌を大人たちが教えてくれました。一つの戦意高揚だったのでしょう」