石垣市白保出身の迎里光子さん(87)は沖縄戦当時9歳。学校で学んだ思い出はなく「戦争に対しての構えばかりしていた」と振り返る。家の近くには陸軍白保飛行場があり、米軍機による空襲や水平線に真っ黒に連なった軍艦の艦砲射撃も目の当たりにした。78年前の記憶を思い起こし「戦争はない方がよい。軍事費ではなく人々の幸せに使ってほしい」と平和を願っている。
当時、学校は日本軍の炊事場となり、授業はほとんどなかった。校庭で軍歌を歌いながら行進した記憶や、手で目や鼻、耳を押さえてガマに避難する練習ばかりした思い出だけが残る。
婦人会の役員をしていた母と白保飛行場に行き、額に日の丸が描かれたはちまきを巻いた特攻隊員が飛び立つのを見送ったこともある。
「オーセ」と呼ばれる昔の番所跡で青空教室が行われていた時、上空を米軍機が4機飛び、近くの民家が焼けた。別の日には海に米軍艦が連なり、赤い火玉が2、3発飛んでいくのを見た記憶もある。「幼くて怖いとは思わなかったが、大人たちは大変だと大騒ぎだった」と振り返る。
戦況が悪化すると山の方へ避難したが、マラリアにはかからず一家は無事だった。最近の国際情勢のニュースを見るたびに、心配が募る。「戦争が起こらないよう平和な世の中を長く続けないといけない」と話した。
(座波幸代)