戦前、朝鮮でバスケ指導、芥川賞作家の小説にも登場の沖縄出身の教師とは<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>4


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1945年の“教科書焼却事件”の首謀者でソウル大教授の金商周(右)ら教え子と再会した小橋川寛(右から2人目)=1970年、韓国

 芥川賞作家の大城立裕の自伝的小説で、戦後まもない野嵩高校(現普天間高)の教諭時代をつづった「焼け跡の高校教師」に登場する「小橋川先生」は実在した人物だ。終戦後の引き揚げ時に朝鮮からバスケットボールを持ち帰った人として描かれている。全島高校籠球大会で、小橋川先生率いる野嵩高が優勝する場面は、小説のハイライトの一つだ。小橋川先生とは誰か―。

 バスケとの関係

 小橋川寛。1902年中城村生まれ。県バスケットボール協会初代会長などを歴任し、戦後沖縄スポーツ界の基礎を築いた。沖縄県師範学校、日本体育会体操学校(現日本体育大)を卒業後、27年から終戦まで朝鮮半島の学校で体育の指導に当たり、最初に春川の江原道師範学校に赴いた。小橋川にとって春川は「第二の故郷」だ。日曜日はさまざまな競技大会を開き、忙しくしていた。

 バスケに親しむようになったのは35年に赴任した京城(現ソウル)の京城第二公立高等普通学校だ。生徒間でバスケットシューズがはやり、朝鮮トップクラスの実力があった。

 小橋川は元々、陸上の中距離が専門だが、体育教員はあらゆる競技に精通するべきとの考えからバスケも教えていた。学業とスポーツの両立を図ることに重点を置き、いかに短時間で効果を上げられるかを目標にした。のちに「(県バスケットボール協会会長になったのは)朝鮮に赴任したおかげだ」と語っている。

朝鮮の大邱師範学校で体育の教師をしていた小橋川寛(小橋川慧さん提供)

 マムシ

 39年に再び春川に戻り、春川範師範学校に就いた。戦時下のガソリン統制のためマイナス20度の極寒でも自転車で通勤した。用具の確保などが困難になり、球技は廃止されたが、寮生活の退屈さやホームシック対策としてマラソン大会やスケート大会などを実施した。これも43年までに全て不可能になった。

 45年8月15日、防空壕での非常時訓練時に敗戦の詔勅があった。小橋川は「寄宿舎が心配だ」と17日も宿直に向かった。指導が厳格で生徒から「マムシ」と呼ばれていたため、家族は小橋川がリンチにあわないか心配したという。

 17日夜、小橋川が巡回していると、運動場の方面から叫び声が聞こえ、炎が立ち上がった。生徒たちが日本語の教科書を焼いていたのだ。「火を消せ」。小橋川は怒鳴るも、生徒は反発した。

 小橋川は朝鮮語の教科書ができるまでは教科書が必要であることや、母語に加えて日本語や英語にも通じる生徒らの将来が有望であることを教え諭した。生徒たちは「ご期待に添えるように頑張る」と勉学に励むことを誓った。

 再会

 70年、小橋川は“教科書焼却事件”の首謀者でソウル大教授になった金商周ら同窓生から韓国に招待される。この訪問を韓国の新聞は「朴(正煕)大統領の恩師訪韓」の見出しで、小橋川を「朝鮮での公民化教育が徹底して行われる中、日本人になることを強制しなかった日本人教師」と紹介している。

 教え子の朴景錫はこう記している。「先生は民族による差別を絶対になさらなかった。私はこの日本人マムシ先生に愛を受けた者として、いつもこの先生の恩に報いたいという思いを持っていた」。小橋川は韓国滞在を「思い出話の中には、教育問題あり、寄宿舎生活の笑い話、楽しかったことや苦しかったことに、夜を徹しての集いだった」と振り返っている。

(敬称略)

(古川峻)


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