米軍攻撃に母涙ぐむ 山田春子さん(2) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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中城湾に面した現在の中城村泊

 那覇の看護婦養成所で学んでいた山田春子さん(94)=中城村=は1945年3月、母マツさんの要望で中城村泊に戻りました。
 3月下旬、米軍の艦船が中城湾に姿を見せ、集落は大騒ぎになります。空襲も始まります。家族は泊集落南側の山林にある壕に避難しました。

 《中城湾の海面にアメリカ軍の戦艦が現れ、攻撃されるのではないかと不安でいっぱいだった。恐れていた攻撃が始まり、空襲は日を追って激しくなりました。上空を爆撃機が乱舞し、地域一帯は焼け野原となり、人命を失いました。》

 米軍の攻撃が始まる前、津堅島などで陣地構築に動員されていた父の安里眞勢さんが泊集落に帰ってきました。その後、米軍の攻撃が始まったため眞勢さんは陣地構築には戻らず、そのまま家族と行動を共にします。壕の中で家族は息を潜めていました。

 《壕に閉じ込められた幼い弟たちはじっとできず、時々打ち上げられる照明弾の光を眺めて騒ぎだしました。母は涙ぐんで「生きた心地はしない」と嘆きました。》
 弟は壕の中で軍歌を口ずさんでいたそうです。その姿を見てマツさんは涙をこぼしました。「母は『こんな時勢に子どもを産むんじゃなかった』と弟をふびんに思い、涙ぐんだのです」と山田さんは語ります。