人気観光地・瀬長島の過去とは 豊富なわき水、多くの聖域、住民退去…「瀬長史」発行


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
県内有数の観光スポットとなった現在の瀬長島=2021年12月撮影

 【豊見城】豊見城市字瀬長の戦前、戦後の歩みをまとめた「瀬長史」(A4判、全107ページ)がこのほど、字瀬長史編集委員会により発行された。字瀬長は戦前、本島側の舟無小原(フナングワバル)と瀬長島にまたがっていたが、沖縄戦で島の住民は退去させられ、戦後も戻れなかった。字史は、現在人気観光地の瀬長島が戦前、半農半漁の集落だったことを紹介している。

 瀬長島は沖縄戦で日本軍陣地となり戦後は米軍管理下に置かれた。戦後、字民は本島側の海岸沿いに集落を築いたが1951年の台風「ルース」で壊滅的被害を受けた。その後現在の瀬長地区(豊見城署近く)に落ち着いた。

完成した字史「瀬長史」を手にする上原芳雄・字瀬長史編集委員会委員長=6月26日、豊見城市瀬長

 字史は瀬長島の戦前の様子を詳しく紹介。サトウキビが舟無小原で栽培され、島内の製糖場で製糖された。その他、野菜を作り、舟無小原では稲作も行われた。海岸線には広大な干潟や藻場があり、魚介類や海藻の宝庫だった。湧き水が豊富で近隣から水くみに来る人もいた。ため池ではコイの養殖が行われていた。島の中央に瀬長(シナガ)グスクがあり聖域も多かった。一年を通し島民が祭事を行っていた。

 字瀬長史編集委員会の上原芳雄委員長は「5歳まで瀬長島に住んでいて、島へ強い思いがある。戦前を知る先輩たちが高齢となり、島の様子を語れる人がほとんどいなくなった。何とかしたいと、字史発行に向けて2021年から資料を収集し書き始めていた。完成して良かった」と話した。比嘉智則自治会長は「字史を通して、かつて瀬長島に人が住んでいたことを一人でも多くの人に知ってもらい、次世代に島の魅力が継承されることを願っている」と話した。字史は100冊を発行、県立図書館、市立図書館、市内の小中学校などに寄贈している。
 (岩崎みどり)