沖縄戦では10代の今で言う中高生が学徒動員され、多くの命が失われたが、日本の植民地統治下だった台湾も沖縄同様、14~16歳が「警備召集」名目で動員された。当時を知る蔡焜霖(つぁいくんりん)さん(93)=台北市=は「沖縄と台湾は日本を守るための“運命共同体”のようなものだった」と振り返る。
満州事変が起きた1931年に生まれた。「15年戦争の申し子ですね」と流ちょうな日本語で語る。日中戦争、太平洋戦争と日本が戦争に突き進む時代に青春を生きてきた。43年に台中州立台中第一中等学校(台中一中)に入学。44年には飛行場の草刈りや塹壕堀りなど日本軍の奉仕作業に明け暮れた。
44年10月、米国統合参謀本部は日本への圧力を強めるため、台湾進攻作戦の中止と沖縄進攻作戦を正式に発令した。日本は、米軍が台湾か沖縄に上陸すると予測。軍部は上陸作戦に備え、兵力補充のため両地域で中高生の戦力化を図った。
蔡さんは45年3月、3年への進級を前に体格検査を受けさせられた。やせ細り、めがねをかけていても「甲種合格」。14歳で陸軍2等兵にされた。「天皇のために死ぬのは当たり前だ」。皇民化教育を受けていたため、死を当然と受け入れた。
編成された学徒隊は海岸一帯に配置され、米軍が上陸してくれば真っ先に突撃を命じられた。銃剣や竹の棒の先に小さな火薬をつけ、戦車の下に潜り込んで自爆攻撃の訓練を繰り返す日々。日本軍の正規部隊は山の中に構えていた。
「台湾と沖縄の若者が動員され、最終的に米軍が沖縄進攻を決定したため、沖縄は多大な犠牲を払わされた。10代の子どもたちを最前線に出し、米軍が来たら、まずその子たちが犠牲になって、米軍の一部を消耗させて有利に戦うという、今考えるとひどい作戦だなと思うんですね」
若者たちの命よりも国体=天皇制を守ることに価値を置き、戦争にのめり込んだ日本の指導部は誤っていた―。そう考えるようになったのは、戦後、自身が国民党政権の弾圧を受け、大勢の若い友人たちを失った体験からでもあった。
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日本の侵略戦争や占領政策は台湾や中国の人々を絡め取り、戦後も影を落とした。東アジアに生きる人々の目線から歴史や交流をひもとく連載の第2部は今に続く苦難の体験や思いをたどる。
(中村万里子)
憧れた“祖国”から弾圧 2・28事件で逮捕、拷問も 台湾の元学徒・蔡焜霖さん 権力への抵抗、重なる沖縄<東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕>①の続き