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憧れた“祖国”から弾圧 2・28事件で逮捕、拷問も 台湾の元学徒・蔡焜霖さん 権力への抵抗、重なる沖縄<東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕>①の続き


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
政治弾圧で殺された友人の名前を指さす蔡焜霖さん=3月、台北市の国家人権博物館

 「きょうは重要な放送がある」。1945年8月15日、部隊長に集められた学徒兵の蔡焜霖(つぁいくんりん)さん(93)=当時14歳=は、日本の無条件降伏を聞かされた。“神風が吹いて最後は勝つ”というのはうそだったのか―。軍のじゅばん2枚とわずかの俸給をもらい、家に帰され、ほっとした。

 復学した学校には中国大陸の教師が来て、使う言語は中国語(北京語)に変わった。友人らと日本語を使うと「おまえたち、なんで使ってるんだ!」と怒鳴られた。しかし、“祖国”(中華民国)への憧れはすぐに幻滅に代わった。

 高校1年の47年、国民党政権が台湾人の抵抗運動を弾圧した「2・28事件」が発生。治安や経済が悪化し、描いていた大学進学の道は断たれた。図書館に入り浸り、本を読みあさった。地元役場で働いていた19歳の時に突然、逮捕された。「まるで犬ころでも引くように」麻の縄で縛られ、憲兵隊施設に連行された。

 国民党政権は、反体制派とみなした者を無差別に逮捕し、左翼思想などを弾圧。「白色テロ」と呼ばれ、独裁体制を強めていた。蔡さんの逮捕は、図書館での読書会参加が理由とみられる。「一番怖かったのは電気ショック。足の親指に電線をまきつけて、全身を電気が駆け巡る。そのあと猫なで声で、『君たち、まだ幼いんだから認めたら帰してやる』と。それで(拇印を)押してしまった」。拷問で自白を強制され、軍法会議で10年の判決を受けた。

 大勢の先輩や友人たちを殺され、出所後も87年に戒厳令が解除されるまで、当局による監視が続いた。台北市の「国家人権博物館」でボランティアガイドを務める今も、「なぜ若者たちが死ななければならなかったのか」と問い続ける。

 先行的な取り組みに学ぼうと2010年、県平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、佐喜眞美術館の3館長らを台湾に招き、交流を実現。沖縄戦の被害だけでなく、戦後も冷戦構造下で基地の重圧や人権問題に沖縄の人々が苦しんできたことを知った。沖縄と台湾について「住民の目線から、住民の命や人権を奪い取ろうとする国家権力にあらがうことが大切、という思いが共通していることが分かってきた」と語る。

 東アジアで米中の緊張が高まる今、蔡さんはこの地域の人々が連帯する意義をこう強調する。「人権と平和、どちらが大事というのではなく、命の尊重、そういうことが一番大切だと思うんです。そういう思いで交流と協力の輪を世界に広げていきたい」。
 (中村万里子)


<用語>2・28事件

 台湾で1947年に国民党政権が台湾住民を武力弾圧し、多数の死傷者を出した事件。47年2月28日、政府への不満から住民の暴動は全土に広がり、1万8千人~2万8千人が国民党軍に殺害されたとされる。戒厳令が87年に解除されるまで、事件は長らく台湾社会のタブーとされてきた。


10代の子どもが最前線に 14歳で召集された蔡焜霖さん 台湾で学徒隊、訓練の日々<東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕」>①