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「日本人の鬼っ子」中国人の憎しみに傷付く 満洲に生まれ中国に残った宮里竹子さん 加害と残留孤児の歴史継承を <東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕」>④


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「日本が中国にどれほど加害をしたか知ることが友好や平和につながる」と話す宮里竹子さん=6月、浦添市

 「日本人の鬼っ子!」。宮里竹子さん(78)=浦添市=は38歳まで過ごした中国で幼少期はそう呼ばれ、いじめられた。母親の節さんは中国残留婦人。日本の敗戦で0歳の宮里さんと2人、旧満州に残された。「針で心が刺されるみたいにつらかった」。日本軍に残酷な行為をされた中国人の憎しみは、宮里さんに向いた。

 1941年ごろ、恩納村の開拓団として宮里さんの父の良一さん、母の節さん、良一さんの母親の3人は旧満州の黒竜江省臥牛吐(おにゅうと)に渡った。中国侵略と占領の国策として進められた満州移民。沖縄からも約3千人が送り出された。良一さんは終戦直前に現地で召集された後、シベリアに抑留された。節さんは生きていくため、中国人の裕福な家庭で働いた。

 生後3カ月の宮里さんが栄養失調で死にそうになった時、手を差し伸べてくれたのが勤め先の家族だった。命を支えるのがやっとの暮らしの中、節さんはその家の息子と再婚。開拓団の人たちが沖縄に引き揚げる中、節さんらは中国に残った。

 いじめられたのは節さんも同じ。親戚に悪口を言われたり、再婚相手に暴力を振るわれたりした。沖縄の民謡を歌いながら泣くこともあった。宮里さんは、学校で日中戦争に関する本や映画に触れ、その残酷さに涙を流した。「なんでいじめられるの」という悔しさは、日本人だから「いじめられて当然かな」という思いに変わったが、心は傷つき続けた。

 「どうしても沖縄に戻りたい」。1972年の日中国交正常化で親子の思いがかなった。75年、沖縄に一時帰国。節さんの母親は既に亡くなっていた。約半年後、2人は中国に戻り、節さんは沖縄での永住手続きを待つ間に病気で亡くなった。66歳だった。

 宮里さんは82年に夫と沖縄に来た。県営住宅の部屋の片隅でオルガンを弾き、母親が好きだった沖縄の歌を口ずさむ。冬には零下30~40度、一面雪景色になる黒竜江省で母親は「沖縄は冬でも緑があるんだよ」と話していた。苦しみ続けた母親の人生を思うと胸が詰まる。「日本が戦争しなければ、こんな目に遭うことはなかったのに」

 安息の地と求めた沖縄は米軍基地が集中し、米中対立の最前線にされようとしている。沖縄が攻撃されることへの不安も募る。今の日中関係悪化の背景には、歴史への無理解があると感じる。願いは、加害の歴史を継承し、過ちを繰り返さないことだ。「教科書に詳しく書かれていないから、日本の子どもたちは、中国に日本がどれだけひどいことをしたか分からないと思う。それでも中国の人は残留孤児をたくさん育ててくれた。日本の若者がそういう歴史を知り、中国と仲良くした方が平和になる」
 (中村万里子)