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“日本人”として動員された台湾の人々 元軍看護婦が屈辱を感じた瞬間 <東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕」>⑤


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
日本のため上海の陸軍病院で看護婦として身を粉にして働いた経験を語る廖淑霞さん=6月、糸満市

 “日本人”として動員された台湾の人々の戦後処理は終わっていない―。そう訴える女性がいる。台湾で生まれ、上海の日本軍の病院で看護婦として働いた廖淑霞(リャアウスゥシャア)さん(95)=台北市。事実上無給で働き、積み立てた軍事郵便貯金は凍結され、十分な補償も受けられなかったという。戦後処理という面では、沖縄戦での台湾人の被害の実態も明らかになっていない。廖さんは「まだ弔われていない人がいるはずだ。かわいそう」と話す。

 1939年に父親の仕事で上海へ渡った。37年には北京郊外での盧溝橋事件が飛び火し、日本軍が上海を制圧していた。制圧を機に、日本は中国への侵略戦争を全面的に開始。同時に国民を総動員し、戦意を鼓舞した。

 廖さんも日本人居留民の小学校で「君(天皇)のために血を流せ」という「皇民訓」や「尽忠報国(忠節を尽くし、国から受けた恩に報いること)」を教え込まれた。

 44年には陸軍病院に志願した。「食糧不足で、肺結核の患者が多かったよ」。兵士らの大小便の処理や死体の消毒に駆けずり回った。

 45年7月以降、米軍が占領した沖縄からB29爆撃機が発進し、空爆が激化した。同僚の朝鮮半島出身の少女が亡くなった。夜間は宿舎から病院に駆け付け、歩けない兵士を防空壕に移した。

 敗戦を知らされ、泣く人や自殺する人もいた。廖さんは46年2月まで働き、その後自宅に戻り、翌年台湾に引き揚げた。

 看護婦としての給与は、軍事郵便貯金に強制的に積み立てられ、当時「家も建つほどの金額」だったが、2000年に支払われた額は19万2340円。怒りに震え、屈辱を感じた。

 国のため献身的に尽くしたことは何だったのか―。「日本人として平等に扱ってほしい。それができないなら私たちのことを記憶し、語り継ぎ、忘れないでほしい」と訴え続ける。

 6月、廖さんは糸満市平和祈念公園の平和の礎や台湾之塔を訪れ、手を合わせた。平和の礎への台湾出身者の刻銘は34人にとどまる。しかし、1943年時点で県内に台湾人は228世帯、1025人いたとされる。(「県史料近代1昭和十八年知事事務引継書類」)。「34人だけとは思えない。もっといるはずだ」と話す。

 廖さんが戦争体験を語ったのは2000年代以降。それまでは家族にさえ話せなかった。台湾は日本領でなくなり、国民党政権下で日本側に協力した者は「逆賊とされた」ためだ。その時代と比べ日本に親しみを抱く廖さんでも、「小さな資源もない日本が中国ともアメリカとも戦ったのは間違いだった」と話す。 日本の侵略戦争に絡め取られ犠牲になった東アジアの人々。差別され、利用された人々は戦後も苦難を強いられた。沖縄戦での東アジアの人々の被害の実態の解明や、加害を含めた多角的な検証、継承が求められている。

 (中村万里子)
 (第2部おわり)