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人生を阻んだ二度の大けが、それでも諦めなかったサッカーの道 故郷沖縄で主審としてJリーグのピッチに 國吉真吾さん<ブレークスルー>


人生を阻んだ二度の大けが、それでも諦めなかったサッカーの道 故郷沖縄で主審としてJリーグのピッチに 國吉真吾さん<ブレークスルー>
この記事を書いた人 Avatar photo 古川 峻

 全国で200人程度しかいないサッカー1級審判員の資格を持つ國吉真吾さん(39)=那覇市出身、山梨県在住=が、故郷に錦を飾った。沖縄市のタピック県総ひやごんスタジアムで10月に開かれたJ3のFC琉球-カマタマーレ讃岐戦で、県出身者として初めて沖縄の地でJリーグの主審を務めた。山梨県の高校在学中から審判員資格の取得を始め、現在は同県サッカー協会に所属するが、「いつも沖縄は心の中にあった」。古里で堂々と笛を吹いた。

「選手が全てじゃない」やり通した高校サッカー

 石田中でサッカーを始め、高校はパイロットを目指して山梨県の日本航空高に進学した。だが視力が悪くパイロットは断念せざるを得ず、続けてきたサッカー部も2年冬の試合中、手術を伴うけがを負い、選手として継続が困難になった。

 失意の渦中で背中を押したのは、恩師で同校を強豪に押し上げた仲田和正監督の言葉だ。「サッカーは選手が全てではない。審判や指導者、マネジャーの道もある」。サッカー部を続けることに両親は反対したが、「仲間と最後までやり通したかった」と2年のうちに4級審判の資格を取得。主務として仲間を支えた。

 3年時にはJリーグレフェリーの長田和久さんとも知己を得た。「審判は人をジャッジする。人間性が大事だ」などと審判の醍醐味を教わり、道しるべになった。進学した北海道の日本航空大学校では、勉強する傍ら2級までを取得した。

「生かされている」1級審判受験を決心

 卒業後は愛知県の空港で航空整備士として働いたが、2006年に第二の転機が訪れる。指を飛行機のドアに挟む事故に遭い、体の一部を失った。下手をすると命すら失いかねない事故に、「人はいつ死ぬか分からない。生かされている」と価値観が転換した。お世話になった人への恩返しなどを考え、審判の道を突き詰めようと決心した。

 職を辞して恩師がいる山梨県に23歳で移り住み、1級取得の準備を始めた。国内最高位の1級審判は、日本協会が主催する試合を担当する。受験には地域協会の推薦が必要なほか、筆記や体力テストに加え、1年間の実技試験がある。國吉さんは講習会に参加したり、全国総体や国体などで笛を吹いたりして経験を積んだ。

 推薦を受けられないなど約7年の時を経て、14年1月にようやく受験がかなった。29歳になっていた。「年齢的にも最初で最後の挑戦のつもり」で臨み、同年12月に合格通知を受けると泣いて喜んだ。「自分だけの力ではなく、サポートしてくれた妻や恩師のおかげだった」と振り返る。

JFLで優秀レフェリー賞、さらなる高み目指す

サッカーJ3のFC琉球-カマタマーレ讃岐戦で主審を務める國吉真吾さん=10月7日、沖縄市のタピック県総ひやごんスタジアム(ジャン松元撮影)

 10月のFC琉球戦は試合プランやチーム分析を済ませ、平常心でピッチに立った。「沖縄への特別な思いは置いておいて準備に努めた」。イエローカードを出すなどその都度判断を下し、無事に試合終了のホイッスルを鳴らした。

 両チームの監督やスタッフと握手を交わし、ピッチを離れる時は客席から「ナイスレフェリー」とねぎらいの声もあった。「メモリアルな試合になった。無事に終わったことが何にも代えがたい」。客席には両親や親族がおり、「少しは親孝行ができたかな」と笑顔で語った。

FC琉球-讃岐戦で県出身者として初めて沖縄でJリーグのレフェリーを務め、家族らと記念撮影する國吉真吾さん(後列右から3人目)=10月7日、沖縄市(提供)

 現在、県出身の1級審判員は2人いる。國吉さんは18年に日本フットボールリーグ(JFL)で優秀レフェリー賞を受賞した。1級の中でもJFLからJ1へと段階がある。年俸契約を結ぶプロレフェリーや国際審判員になる人もおり、最高峰の舞台はワールカップだ。「やるからには上を目指したい」。より高い舞台を目指してピッチを駆ける。

 (古川峻)