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【寄稿】真実は取調室ではなく法廷に 那覇地裁で相次いだ「一部無罪」、厳格解釈は評価 中野正剛氏(沖縄国際大学教授)


【寄稿】真実は取調室ではなく法廷に 那覇地裁で相次いだ「一部無罪」、厳格解釈は評価 中野正剛氏(沖縄国際大学教授) 中野正剛氏
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 起訴件数の多い大都市圏に比べ、地方都市にある那覇地裁で無罪判決が続いたのは珍しいが、それぞれ別個の事件であって相互に関連した事件でない点も鑑みると偶然が重なったとみるのが妥当ではないか。もっとも、無罪判決を促した検察官の起訴裁量が悪かというと、そうと断定できるかは疑わしい。

 戦後刑事訴訟法学をリードした元東大総長の平野龍一氏の言葉を想起する。「あっさり起訴論」である。これは捜査段階での事件関係者から直接供述を引き出して精密な調書にまとめて、公判廷に提出して事実認定をさせる現在のやり方を批判して、公判中心主義を説く過程で提案された考えであった。

 この考えによれば、公判では供述調書ではなく、弁護人も立ち合いの上で関係者への質問や尋問を行い、捜査段階で取られている調書に依存せず、法廷で裁判所は心証を直接獲得していくのが適正であるという考え方だ。

 平野氏の考えに従えば、無罪判決を検察は得たから間違った公訴提起をしたと評価を下す必要はない。真実は取調室にあるのではなく法廷にある。結果として、近年明らかにされた袴田事件などにみられた、捜査段階での強引な供述の誘導への誘惑は減少する可能性を重視する。

 傷害の一部無罪判決についてみると、わが国では共犯事件の過半数は共謀による共同正犯として処理されているのが現実だ。刑法の基本的考え方からすれば本筋を外れている。なぜか。捜査実務ではいまだに人の供述を調書化することに精力が注がれている。供述を基に共謀という事実が認定され、実際に被告がどういう行動を現場でしていたかに裁判実務は無頓着とされる批判さえ専門家の間からなされて久しい。

 被告人らが日常的に暴力を繰り返す暴力団に親和性が認められる点に注目するのではなく、犯行現場での被告人らの立ち位置やその他の客観的な関与状況に具体的に着目して裁判所が事実認定していったのは評価に値する。

 脅迫事件の一部無罪判決については、証言の信用性を検察官などが公判の開廷に先行して実施する証人テストというものがある。これは薄れてゆく記憶を喚起し、慣れない法廷で緊張してうまく証言できずに進行が滞るのを防ぐため、公判廷外で行われる準備活動の一つだ。

 証人テストはテストを実施する捜査機関の思惑を証人の記憶に上書きをしてしまうリスクも伴っている。のちの国会審議でも話題にされたキャッツ粉飾決算事件などはその典型例である。

 今回の事案では、被害者が高齢であったことから法廷外で捜査機関によりこのテストが施されたであろう。法廷での被害者の証言の内容などが明確でなく、証言内容も犯行現場の状況と整合性を欠くとした裁判所の事実認定には、捜査段階で取られた調書の内容に依存しない点で説得力がある。

 組織犯罪処罰法を巡る一部無罪判決事件では、同法は日本が締結した国際条約を国内で効果を発揮させるために立法化された国内法であって、わが国に元からある刑法などとの整合性が専門家の間で現在も問題になっている。今回の事件ではこの点が明確になったという意義を持つ。

 被告人には前科がなく、車上荒らしの結果得た他人のクレジットカードでたばこ2個を購入した際に、カードの名義人に成りすましたことが犯罪収益の仮装行為に当たるとされたものである。

 確かに他人のクレジットカードの不正使用は将来の犯罪活動につながる懸念がないわけではない。しかし、刑事法の基本原則は現に行われた行為についてどう評価するのかに尽きる。将来の犯罪について考慮に入れるためには同法1条の趣旨に照らして慎重でなければならない。

 裁判所が刑法上の罪である詐欺罪とは別に犯罪収益の仮装行為に相当する部分を犯罪としなかった点は、罪刑法定主義に言う厳格解釈の点から評価に値する。弁護人が弁論の中で本件起訴を「立法当時想定しない拡張的な解釈運用であると言わざるをえない」という指摘したのは秀逸である。

 検察官は、起訴に当たり慎重に事案を精査し安易な法適用の拡張につながらない運用が求められる。

(刑事訴訟法)