今年で最後の開催となる沖縄国際映画祭(島ぜんぶでおーきな祭)について、吉本興業の前会長で第1回開催から映画祭実行委員長を務める大崎洋氏が13日までに、琉球新報のインタビューに応じた。沖縄で映画祭を始めたきっかけや吉本興業として関わった意義、終了に至るまでの心中から大崎氏が思い描く「新おーきな祭」の形まで、インタビューの詳細を紹介する。 (聞き手・嘉手苅友也)
■「沖縄の子どもたちに夢を見せたい」
―沖縄で国際映画祭を開催しようと思ったのはなぜですか。
「吉本興業に入って45年(2023年退社)で、僕が沖縄に通い出したのも44年くらい前からです。そんな中で沖縄の子どもたちに、好きなこと、得意なことで夢を見させてあげたらと、ずっと思っていました。ダウンタウンの松本君(松本人志氏)が、カンヌ国際映画祭に招待されたことを機に、まね事みたいになるけども、こんなことやれたら楽しいなと思って。元々感じていた、『沖縄の子どもたち・若者に夢を』って部分が結び付いて、沖縄国際映画祭をやろうというのが元々の気持ちです。沖縄の人たちと一緒に、新しいエンターテインメントでカルチャーを作りたいと思ったんです」
―新人監督の掘り起こしや、沖縄県産映画の機運が高まったという意見もあります。
「そう言ってもらえるのはうれしいし、少しは前進したかなと思います。やっぱり、3・11の東日本大震災の時ですね。日本全国が歌舞音曲(かぶおんぎょく)のたぐいに自粛ムードでしたが、2週間後に映画祭の開催が迫っていました。そのときに、『エール、ラフ&ピース』をテーマに、沖縄から本土へエールを送りました。もちろん震災は大変だけれども、開催することに意味があると思って決行しました」
「(震災の後の)映画祭をきっかけに、本土でもコンサートなどいろいろな催し物が始まりました。沖縄の人たちがきっかけで本土が明るくなったのは、すごく良かったと思います。つらいときも助け合って、みんなで笑顔と笑い声いっぱいで映画祭をやろうと、県民一丸になってできたので、沖縄で映画祭をやって本当に良かったと思いました。沖縄の人々も悲しい歴史の中でもそうやって暮らしてこられた。沖縄だから説得力があり、できたことだと思うのです」
■実行委員会「解散」のいきさつ
―今年3月に映画祭実行委員会から吉本興業の脱退表明があり、書面決議をとって実行委の解散が決まりました。経緯を教えて下さい。
「吉本興業の社内で整理してもらい、解散の承認をもらいました。3月4日の実行委臨時総会で委員長として、僕が解散を説明しました。みなさんびっくりしたと思います」
「僕が吉本興業を退任して、なおかつ、(吉本興業の)お金を持ち出してずっと赤字でやっていたので。僕が社長や会長の間は責任をとれるけども、(会社を)辞めると責任がとれないので、一区切りにしようと決めたんです。だから僕自身は悩むこともなく、吉本にお金や負担をかけるわけにもいかないので一区切りにして、その後は『なんくるないさー』で考えるって。その後のことを考えてもまだ分からなかったしね」
「その後、民間の人とかが、次やるなら一緒にやろうって言ってくれたりするので、会議の話も進んでいます。お酒は会議の後でねって言ったら、みんな分かったって言ってました(笑)」
■「沖縄の人に任せなきゃいけなかったのに」
―大崎さんの意思を吉本興業が継ぐという話にはならなかったのですか?
「沖縄に44年間通っていた僕が社長になって始めたことだし、もう一度、沖縄の人たちと相談しながら、吉本興業との関わりを今後どうするのかは考えるけども、まずはリセットすることを僕が決めたので。映画祭を16年間やってきて、沖縄の人たちとの関係性も築いてきました。結果的に、映画だけにとらわれない色んなアイデア、新しい意見を、沖縄の人たちと言い合えるようになったと思います。良い意味でシュッとできて、『新おーきな祭』になるんじゃないかと思っています」
―吉本興業が脱退して、沖縄のメンバーだけでは継続できない体制だという意見もあります。
「僕にとっても反省。沖縄の人たちと関係ができていたので、どこかでバトンタッチして、沖縄の人に任せなきゃいけなかったのになかなかできなかった。僕も吉本興業も沖縄の人たちも、反省も学習もしたし、その分信頼関係もできたと思うので、止めずにがんばろうと思っています」
■吉本辞めて「万博やるって言ったわけだから」
―16回まで続けてきたことについてどう思いますか。
「僕が勝手に吉本興業を辞めて、万博(大阪・関西万博)やるって言ったわけだから。僕の都合、思いつきでやっていたので、みんなを振り回してしまうことかもしれない。そこは反省しながら、良い方に考えれば、沖縄の人たちと16年間勉強して、新しいスタートが一緒に切れることはいいことだと思います。映画祭を始めたときは、僕らも沖縄の人たちも何をしたらいいか分からないし、『とりあえずやりましょか』って言ってやっていたんです」
「某社長にも、『大崎さんこんな赤字でどうしてやってくれてるの』って100回くらい聞かれて。『なんとかせないかんのですけど。なんで続けられるのか、僕もはっきり分からないですよ』って100回くらい答えました(笑)」
―社内から異論はなかったのですか。
「僕のいないところではみんな不安がっていたと思いますけどね。でも、吉本興業って会社も沖縄だけに関わらず、日本のいろいろな地域の人と、もっとつながりを持たないとだめだと思っていました」
「東京や大阪だけでテレビの視聴率がいいとか、勝った負けたとか、資本主義の世界ではそれも大事だけど、そればかり意識すると(地域との)バランスが良くないと思っていました。社員も芸人も吉本興業という組織も、北は北海道から南は沖縄、先島諸島まで、頭と心の隅に(地域のことも)毎日感じていないといけない。吉本興業の赤字は良くないですけど、やるべきことだと思ってやっていました」
■沖縄の人たちと「新しいお祭りを」
―大崎さんが新たに立ち上げた「一般社団法人mother ha.ha」は地方活性化をテーマにしています。
「入社時から、京都の丹後半島の廃校を使って、番組をさんま君(明石家さんま氏)と作ったり、大分県の野津町で大分版の新喜劇を作ったりしました。そんなことをぼちぼちやっていましたから、僕の中では(昔から)つながっています」
―県民、映画祭の関係者の方々に伝えたいことはありますか。
「本当に長い間ありがとうございました。感謝しかないです。これを機会に、もっと沖縄の人たちと寄り添って、新しいお祭りを作りたいと思います。引き続きよろしくお願いします」