【ハワイ=当銘千絵】米ハワイ州に到着した「ハワイ捕虜収容所沖縄出身戦没者慰霊祭」の参加団は2日午後、ホノルル市ワイパフ地区にある県系人の活動拠点のハワイ沖縄センターで県系人らと昼食会を開いた。1945年当時の収容所の様子や県人捕虜との交流について鮮明に覚えている県系人4人が証言し、いまだ多くの謎に包まれているハワイ県人捕虜の生活実態を浮き彫りにした。
県系2世のクララ安里後藤さん(84)は1945年当時、12歳だった。中城村泊出身の父・安里タケトさんや叔父、いとこたちとポカイ湾の埠頭(ふとう)で働く県人捕虜に弁当を差し入れたことを鮮明に覚えている。後藤さんは「父は同胞のウチナーンチュが自由のない収容生活を強いられていることに、大変心を痛めていた」と振り返る。生前、父が撮影した県人捕虜の写真を今も大切に保管し、「歴史の継承に役立てたい」と語った。
写真は安里さんが45年ごろ、ポカイ湾周辺で撮影した。当時、カメラを所有する県系人は少なく、当時の様子を知るための貴重な資料写真といえる。
後藤さんによると、県人捕虜の中に安里さんの地元・中城村出身の「比嘉ユウキン」さんと別の「比嘉」さんという男性がおり、安里さんは「2人を親族のようにいたわった」という。
90年に後藤さんが初の来沖を果たした際にはユウキンさんが後藤さんを訪ね、捕虜時代に受けた恩への謝意を述べたという。
後藤さんは「沖縄とハワイは物理的距離では遠いが、心はいつも寄り添っている」と述べ、「子や孫の世代にもこの絆を引き継ぎたい」と語った。
今回、県人捕虜の写真を初めて見たという後藤さんのめい、デニス・リューさん(56)は「3千人ものウチナーンチュが捕虜だったとは知らなかった。悲しい歴史でも、我々は事実を後世に伝える義務がある」と強調した。