【南風原】沖縄戦の捕虜が収容されていた米ハワイ州の収容所で、戦前にハワイに渡った県系人が働いていたことが分かった。元捕虜の赤嶺登一郎さん(享年78)が、ハワイの収容所で電気技師として働いていたいとこの義一さんと面会を果たしていたことを登一郎さんの遺族が証言した。ハワイ捕虜収容所沖縄出身戦没者慰霊祭実行委員会の渡口彦信共同代表は「県系人が働いていたことは記憶になかった」と語った。
「南風原町史第8巻移民・出稼ぎ編 ふるさと離れて」によると、第2次世界大戦までに南風原から471人がハワイへ移民として渡った。登一郎さんの両親と叔父の登助さんらは1907年、ハワイに渡った。
登一郎さんの娘・信子さん(86)=南風原町宮平=によると、登一郎さんだけは別の叔父の養子として沖縄にとどまった。防衛隊として沖縄戦に召集され、本島南部で捕虜になりハワイへ送られた。
登一郎さんが捕虜としてハワイに送られたことを知った両親が、住んでいたカウアイ島から収容所に面会に来て約40年ぶりの再会を果たしたという。叔父の登助さんは、オアフ島の自宅に登一郎さんを招き、夕食をごちそうした。
登助さんの息子で、いとこにあたる義一さんは収容所で電気技師として働いており、電気機器の修理など仕事のたびに、捕虜の中から登一郎さんを選んで仕事を手伝わせたという。登一郎さんは生前「収容所で親類に会えるとは思わなかった。またハワイに行きたい」と話していたという。
慰霊祭について信子さんと夫の己之助さん(88)は「(登一郎さんが)生きていたら、参加したがったと思う」と話した。(半嶺わかな)