沖縄戦で捕虜となり、移送先のハワイで死去したまま遺骨の行方が分かっていない石川苗得(びょうとく)さん(享年33)=那覇市首里出身=について、ホノルル市の慈光園本願寺の元住職の故山里慈海さん=久米島出身=が石川さんの遺族に遺骨収集について助言した手紙を1976年に書いていたことが分かり、その手紙が10日までに見つかった。40年以上前の手紙には、県系人のハワイ島郡長(当時)など有力者を通して米国政府へ交渉すべきと書かれていた。
手紙の持ち主は山里さんの親戚に当たる徳田球美子さん(79)=那覇市首里。徳田さんは、苗得さんの妻・純子さん(享年89)の友人だった。
慈光園は捕虜としてハワイに連行され亡くなった県人の慰霊祭が開催された場所。戦後、県系人の救援物資の集積所、集会所となるなど、沖縄移民の心のよりどころだった。
76年11月29日付の山里さんからの手紙には、ハワイの駐在の宗教者や一中(現在の首里高)時代の仲間など、あらゆるつてを使って聞き取りをしたが、苗得さんの最期を知る有力な情報は見つからなかった旨が記されていた。その上で沖縄初の女性県議だった徳田さんの母・上江洲トシさんから(1)喜屋武真栄さんなど県出身議員を通して日米の外交ルートに乗せて調査させること(2)ハワイ島郡長のハーバート・マタヨシさんを通して州政府、米国政府に問い合わせ、当時の記録を調べてもらうこと-などの助言があった。
徳田さんの義母・圭子さんと純子さんはかつて近所同士で、純子さんはたびたび圭子さんの自宅を訪ねては、遺骨捜しの相談をしていたという。「何とか純子さんを助けてあげたい」と思った徳田さんがハワイにいる山里さんに状況を説明し、現地での情報収集を依頼していた。
10日、徳田さんから手紙を見せてもらった苗得さんの孫で、去る4日(現地時間)にハワイで開かれた県人捕虜の慰霊祭にも参加した石川英樹さん(39)=那覇市=は「何十年も前から祖父母のために一生懸命やってくれた方々がいることを知った。皆さんのためにも、一日も早く祖父の遺骨を見つけたい」と語った。徳田さんも「戦後72年たってもまだ、諦めきれない人々が大勢いる」と述べ、元捕虜や遺族の高齢化を踏まえ、政府主体の遺骨収集は急務であると訴えた。(当銘千絵)